過去の活動報告

第21回 東京読書会 開催報告

開催日時:
2017年6月23日(金)19:00~21:00
場:
レアリゼアカデミー

第二期第21回(通算第76回) 東京読書会開催報告

「サーバントリーダーシップ」(ロバート・K・グリーンリーフ著、金井壽宏監訳、金井真弓訳、英治出版、2008年)の第二期東京読書会は、今回から第7章「教会におけるサーバント・リーダーシップ」に入ります。
グリーンリーフが活躍した米国では、キリスト教を中心とする宗教が今もなお、人々の生活から社会運営に至るまで強い影響力を与えていることはよく知られています。グリーンリーフは20世紀後半の米国において中核となる宗教団体のキリスト教会が社会のサーバントたるリーダーに対する役割の重要性を認識し、いろいろな提言を行っています。今回はこの章をまとめる小論と彼自身が信徒であったクエーカー(注)の雑誌に投稿した二つの小論を会読しました。(今回の会読箇所:p.351~p.372、9行目。小論の最後まで)
(注)17世紀イングランドでジョージ・フォックスにより創設された宗派。
正式名はキリスト友会

【会読範囲の紹介】
[序論]
「宗教的な関心を伴ってなされる物事は、人類を宇宙へと縛り直して、社会に広がる孤独を癒すものだ。」 グリーンリーフは教会のリーダーシップに関する小論を編集したこの章の解説の最初を、このように書き出しています。彼は自身の宗教観について、神学を基盤とするものではなく、「言いようのない神秘の前に、畏敬と驚嘆の念を抱いて立ち尽くすだけで満足なのだ」と表明する一方で、神学を究めて神秘主義の領域にある人々とも「共通の背景を感じる」と述べています。
グリーンリーフは、「教会に求められているのは、孤独が癒されれば人生は完全なものとなるから、その仲介役をしてほしいという数多くの人間への奉仕である。だが、残念ながらほとんどの部分で教会の奉仕は失敗に終わっているようだ。教会がもっとよく奉仕するための方法はある。また、サーバント・リーダーになるための方法も―ほかの組織のための手本となれば良いのだ」と現代米国の教会への批判とそれを超える大きな期待を寄せています。
われわれ読者、ことに日本人の多くが社会生活の背景に宗教が明示的に存在しないことから、「サーバント・リーダーシップ」が「教会におけるサーバント・リーダーシップ」と章を一つ割り当てていることに違和感を抱くこともありますが、宗教への敬虔な姿勢はグリーンリーフの思想の深層を形作るものであり、この章も注意して読み解いていくことが求められます。

[二十世紀後半に、求道者となることについて]
・この小論は、プロテスタントの一宗派であるクエーカー(キリスト友会)教徒向けの月刊誌「フレンズ・ジャーナル」に寄稿されたものです。神の言葉を人々に伝える預言者について、「過去の偉人にも引けを取らないほど徳の高い人々は男女を問わずにわれわれとともにあり、現代の問題を見抜き、より良き道を教え、この時代を存分に、しかも心穏やかに生きていくための手本を示している」と説明しています。そして「人々が預言に耳を傾けてくれたとき、預言者は名声を得る(中略)つまり、‘求道者’こそが、預言者を生み出すのだ」と主張します。真実はそれを明らかにすることを求めることで、ようやく解明の途につく、という内容です。またキリスト教における求道者とは、本来、キリスト教の教義や倫理を習得、実践する人を意味しますが、グリーンリーフは、この小論において、現代社会での混乱からの脱出を導くリーダーを目指す人をイメージしています。「だから(求道者は)現代の預言者の声を探し求め、それを受け入れようとして一歩を踏み出せば、われわれの誰もが成長し、奉仕する人となり得るかもしれない」というのが彼の意見です。
・この意見への反論として、現代の預言者には過去の偉大な預言者に匹敵する預言はできない、というものがありますが、グリーンリーフはその正否よりも「どんな人も預言において重要な役割を果たす」という点を強調します。
・グリーンリーフは、クエーカー(キリスト友会)の創始者であるジョージ・フォックスが活躍した17世紀には多くの「新しいリーダーシップを伴う、新たなビジョンの到来を待ち受ける求道者」がいたと述べます。そして、この小論が書かれた1970年代は、「探求している人は多いが、探求への情熱を満足させようとする人々がさまざまな情報をひっきりなしに伝えて、混乱をもたらしている」と、このころにも多数あった心の安定や精神を目的とした自己啓発の手法を教会が従来から提供するプログラムと並列して挙げています。そして「現代の求道者」が自己啓発の多様さと魅力に驚きつつも、かなりの人が「すべてを追求することに人生を費やし、探求の結果得られる成果」事態を拒否し、「倫理的なジレンマに生涯陥ることになる」と問題指摘しています。
・彼はこの小論の読者のほとんどがクエーカー教徒であることを意識して、創始者ジョージ・フォックスの功績を「自らをフレンド(注)とよぶ多くの人々が、全ての創造物にもっと愛をもって接し、自分たちの社会と組織への強い責任感を担うようになったことだ」と表明し、クエーカーの組織特に商業組織の質が向上したことに言及しました。それを踏まえて、巨大化した組織社会の現代におけるサーバントの意義に目を向けるようにと述べています。
(注)クエーカー=キリスト友会においては、同じ宗派の人々をフレンドと呼んでいる。
・グリーンリーフは、現代社会のサーバントでありリーダーを目指す求道者に「(現代の個人的、全体的な)混乱からの脱出方法を見つける手助けをしてくれる現代の預言者を、責任をもって探し、預言者の声に耳を傾ける」ことで「求道者はより社会に役に立つサーバントになれる」と促しています。
・「力やビジョンを持ち、高潔で、能力や若々しい活気に満ちた人々(中略)は、まさに今、彼らのリーダーシップに対するわれわれの反応(中略)を試している」、そして「われわれを取り巻く文字通り泡のような情報の中から定位される予言」に「本当に耳を傾けて反応する準備があるのだろうか」と厳しく問いかけてきます。
・「自らを無名の求道者の一人と思っている人」が周りの動きに耳を傾けていくことで、その人は「奉仕することによってのみ達成できる完全さ」を発見し、その発見を支援してくれる現代の預言者を見つけ出すことができます。そして、「この完全さの中から一つの目標が現れ、現代の根源的な不安や、多くの組織が奉仕しようとして失敗した経験から生じる苦しみに耐えるだけの力も求められるだろう」と小論を締めくくります。グリーンリーフは、他者に奉仕するサーバントリーダーシップの発揮は、多くの苦しみを伴うことであり、リーダーはその苦しみも甘受するべき立場である、と求めています。

[知る技術]
・この小論も1974年10月5日にクエーカー教徒向けの雑誌「フレンズ・ジャーナル」に「現代のクエーカー教徒の思想と暮らし」という題で掲載されたもので、17世紀のイングランドでのクエーカーの創始者であるジョージ・フォックス(注)のリーダーシップを語ったものです。グリーンリーフは「この記事は‘クエーカーの伝統から問題解決の糸口を探ろうとする人々’向けにかかれているが、‘こうして私は身をもって知ったのだ’という言葉に力を感じるすべての人々に役立つかもしれない」とこの小論の意義を述べています。
(注)1624~1691年。多くの弾圧を受けながらも
純粋な信仰を基盤とするキリスト友会を設立。
・「こうして私は身をもって知ったのだ」とは、ジョージ・フォックスが聖職者として活動する中でしばしば使った言葉です。これは、「誰よりも優れた洞察力を持っている」というグリーンリーフがひたすら聖書を読むことでその洞察力を得て、社会的権威の影響力ではなく、自らが受ける啓示を受け入れることで、多くの判断を下していったことの表明です。
・グリーンリーフはこの判断を下すというプロセス、つまり「物事はどのようになされていくのか」を組織学者の立場から説明していくと宣言しています。彼は「身をもって知る」という才能を受けたフォックスにより、クエーカー信徒が「初期のキリスト教の精神と本質にすばやく立ち返えることができ」、「意味のある新しい動きを見つけて人々を導き、新たな道徳規範をあの時代に立ち上げ」た、としています。フォックスはキリスト教とユダヤ教の共通かつ確固とした倫理観を持っていたと言われ、それが彼の良き影響力の源泉です。その倫理観は、彼に力ではなく、「目指すべき方向性(を知ること)」を与えました。
・グリーンリーフは若き日の自らを振り返り、「身をもって知る」ことの重要性に気がつかなかったことを悔いるとともに、多くの人がそのことを知る助けとなるべき教育がその機能を発揮していないことを指摘しました。そして「現在、最も必要とされており、クエーカー教の伝統から見出せるものは、方法はともかくとして、敏感な若者たちに身をもって知るという可能性に気付かせる助け」ではないかと主張します。現代は、「有能で道徳的な人によるリーダーシップが、世界中で至急求められている」時代であり、現代が「フォックスの時代から受け継がれてきた伝統」とつながる必要性に言及しています。
・グリーンリーフは、読者であるクエーカー信徒に訴えます。「サーバント・リーダーの成長は、クエーカー教の伝統で働く人々や、教育に特別な関心を持つ人たちの最大の関心事として、盛んに求められている。われわれが望むのは、物事をうまくやる方法でもなければ、(アメリカにおいては)仕事に必要な物資でもない。心から必要としているのは、先に立って進むべき道を示してくれる、有能で道徳的なリーダーなのだ。そうしたリーダーがいれば、道徳規範も多くの人々の考え方も向上し、人は今持っている力と知識を使って、より奉仕するようになるだろう。」 そして、その当時(1974年)は、リーダーシップ軽視、リーダー不在の社会を提唱する人も出てくる中、リーダーとなることを望む人を導くサーバントの不在につながると警鐘を鳴らしています。
・社会の変化と変革の中で、あたかも自滅を望んでいるかのように変化を拒否する旧来型組織への対処を問われたグリーンリーフは、「能力がないなら身につけるべきだ」と断言します。それは何かの分野の具体的技法ではなく、「身をもって知る」ということである。それは安易に定義できるものではなく、ジョージ・フォックスの日記を繰り返し読むことで、ある日見えてくる、とグリーンリーフは説いています。そしてフォックスを学ぶとは、彼の行動をまねるのではなく、「いかに学んだか」ということである、と喝破しました。「‘いかに学んだか’は時代を問わない」が故に、「この時代に適した、優れた英知の学び方を学ぼう」と提言して、さらに、「新しい洞察力が現れるのを、驚きと期待を胸にじっと待つこと」を説いています。
・「人の内面の指導に関われば、この上ない達成感を味わえるが、関与(コミットメント)と狂信的行為の線引きは曖昧」という難しさをグリーンリーフはよく理解しつつも、奉仕の重要性がフォックスの時代も現代も変わらないことを伝え、私たち一人ひとりに限界はあるが才能もある、と励ましつつ「ささやかなものであろうと、身をもって知り、人を導き、他者に教え」ることで、「(社会のリーダーを目指す)若者たちに手を貸そうではないか!」と読み手に訴えて、この小論を終えています。

【参加者による討議】
・一番目の小論「二十世紀後半に求道者となることについて」では、預言者がキーワードになっている。ユダヤ教やキリスト教では、啓示によって神様の言葉を知り、それを人々に伝える人のこと。預言の中には「将来、こうなる」という予想を踏まえた内容のものもあるが、ノストラダムスの大予言のような将来を予測するだけの「予言」とは異なる。旧約聖書の特に後半は、預言の書といわれる。
・旧約聖書の時代にも、だれが正しい預言者かということを同時代の人が分からなかったことが多い。複雑、混沌な現代社会での、正しい道を示してくれる人がだれかということは、一層難しくなっている。
・その一番目の小論の最後が「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」という松尾芭蕉の一文と、フランスの社会主義者であるジャン・ジョレスの「過去の祭壇から灰を盗まず火を盗め!」という格言が引用され結語となっている。奉仕する人、すなわち現代の預言者につながる重要な行動について示唆していると思うが、ここに引用した意図や文の意味が十分に理解できないでいる。
・二番目の小論「知る技術」につながるが、たとえば人の上に立つ人が「何を言ったか」ではなく、その発言に至る経緯、どのような問題意識があったのか、自身の思想をもつためにどのように学んできたのか、課題についてどう調べてきたのかといったことがより重要ということではないだろうか。
・上位者の発言が「邪念のない利他的なものかどうか」はとても重要だと思う。
・その点では「知る技術」のp.365からp.366にかけて、サーバントリーダーについて、「生まれつきサーバントになりたいと願う人であり(中略)他者が建設的な方向に進むのを手助けできる人」と書かれていることに注目したい。
・他人の発言をうのみにするのではなく、自分自身で深く考えること。このことの重要性は、普遍的で時代を問わない。
・キリスト教徒の中でクエーカー信徒の倫理意識は、一般的にとても高い。宗教に基づく倫理だ。日本人の倫理意識の源泉は何に基づくのだろうか。
・日本人の場合は古くから儒教を受け入れた後、これを実語教など、幼少期から習い親しむ形に展開している。最初の小論「二十世紀後半に、求道者となることについて」の最後に松尾芭蕉が引用されていることに、何らかの縁を感じる。

・これらの小論を読んで改めてラリー・スピアーズがまとめたサーバントリーダーシップの10の属性(本書、p.572-573)を確認してみた。グリーンリーフの他の論文などでの意見に比べて、今回のクエーカー信徒に向けた提言には、第3の属性である「癒し(Healing)」と9番目の属性「人の成長に関わる(Commitment to the growth of people)」の要素を強く感じる。
・そのことについては、苦しんでいる人が救いを求めて集まる場が教会の原点であるからではないか。原点に立ち返ることの重要性が示されている。
・勤務先でマネジネントに関わっているが、部下に組織の目的を念頭において、ここの目標を設定するようにと常に伝えるように心がけている。目標とそこに向かう方法を細かく考えている中で、目的、つまり組織本来のミッション、存在意義を見失うことがありがちなので注意しないといけない。

・先日、青山学院大学陸上部の原 晋(はらすすむ)監督の講演を拝聴した。原監督が監督就任当時の青学大陸上部は駅伝の予選も通過できなかった。原監督はそのような状況の中でサーバントマネジメントと呼ぶ方法での指導を進めている。大学監督になる前のサラリーマン経営で、組織力を高めることにおいて人を育てることの重要性を認識していたそうだ。
・何よりも成果を挙げていることが素晴らしい。監督と選手の間にWin-Winの関係がある。
・成果は重要だ。ただし、いろいろな組織で求められている本当の成果は何かということをしっかり検討して明確にすることは重要だ、案外難しい。

・キリスト教会というと、多くの人は聖書や神を想像し、それらの記述やことばを詳しく正確に引用したりすることに価値を見出そうとする。本当に大切なのは、そのような表面的なことではなく、崇高なビジョンを示して、社会全体の光となる役割を担うことだ。グリーンリーフもそのように訴えていて、そのことの意義を改めて痛感した。