第二期第19回(通算第74回) 東京読書会開催報告
「サーバントリーダーシップ」(ロバート・K・グリーンリーフ著、金井壽宏監訳、金井真弓訳、英治出版、2008年)の第二期東京読書会は、第5章「教育におけるサーバント・リーダーシップ」の最後の小論を会読しました。この章には4つの小論が掲載されていますが、その最後は、ウッドロー・ウィルソン財団が米国の75の大学とともに行うシニア・フェロー・プログラムのレビューに先立って行われた講演録です。この講演は1974年に行われ、大学におけるリーダーの選抜と育成について語っています。(今回の会読箇所:p.316 10行目からp.328の 3行目、この章の最後まで)
【会読範囲の紹介】
・ウッドロー・ウィルソン財団は、リリー基金の補助金を基に約75の一般教養課程大学(カレッジ)の参加によるシニア・フェロー・プログラムを実施しました。一年経った1974年の秋、このプログラムへの参加者によるレビュー会が開催されました。その席上でのグリーンリーフの講演記録です。このプログラムには企業、政府からの参加者や教職員が1~3週間をウッドロー・ウイルソン・センターに滞在して行われます。そのプログラムの第一の目標は学生への奉仕がプログラムの提供です。
・「最も生徒のためになる教育を目指すフェローといった大学のリソースを最大限に活用する機会を提供」し、それは「学生への奉仕がプログラムの第一目標」とするものです。
・グリーンリーフはこの制度がうまくスタートしたと評価しつつも、「シニア・フェローがこのプログラムを最大限活用しているとは言い難い」と批判しています。その批判の対象は財団ではなくカレッジであり、「カレッジは何をなすべきか」を問いかけていきます。
・彼は、一般的なシニア・フェローと位置付けられるビジター(大学を訪問して学生向けの何等かの活動を行う大学の部外者)を、大学生への貢献の観点で3つに分類します。
- いわゆる「大物」。学生の集客力があり、集まった学生が注目度の高い問題に触れている
という気分を体験させることができる。
- 大学の文化を豊かにする人々。コンサートや講演会を実施する。
- 特定分野の専門家、科学者。同じ専門分野の教職員や学生の興味をかきたてる。
・グリーンリーフは、ウッドロー・ウィルソン財団のプログラム参加者に、上記3つ以外の、「企業、産業界、専門的職業、政府で実経験を積んだ人間」が「学生たちのために役立てられる」 ような第4のシニア・フェローのカテゴリーを示しました。
・「どの大学にもしっかりした学生のグループ(おそらく多数派ではないが、実力はある)がいて(中略)、すでにサーバントとしての倫理に専念し」ており、大学には「そうした可能性がある学生を発掘し、指導していく(後略)」ことを求め、「シニア・フェローが奉仕する対象として最適なのは、こうした学生たち(後略)」であると指摘しています。さらに、シニア・フェロー制度の成否、すなわち「教育上の利益」は大学のプログラムの継続性であると強調しています。
・素質ある学生には「才能を成熟させる特別な手助け」が必要である一方、「責任感のある人間になる可能性を持つ学生(を)選抜するのは困難」であり、素質について教職員が学生に正しく伝えることで、一部の学生は自分の素質や才能に気づき、何らかの反応も期待できるとも述べています。
・グリーンリーフは、こうした話をしながら、「なぜ大学は、並はずれて責任感のある人物となりそうな学生を発掘し、指導しないのでしょうか。こうしたことが明らかに拒絶されていると、私は断言できます」と経験に基づく強い批判を述べます。彼自身が資金や時間を費やして大学によるリーダーシップ教育を支援してきたものの、そうした支援活動が途切れた時に、大学はその教育を止めてしまったのです。「これには驚いたものです。大学とは、学生の教育にとって大事だと信じていることを実施するために活動し、豊富と言えない資金もすべてその活動に費やすものでしょう。しかし、私が述べたことを、その大学は単なる義務としてか見なしていなかったのです」というグリーンリーフのことばが聴衆に注がれました。
・20世紀初頭に大学生だったグリーンリーフは、彼の恩師(注)による「文化全体の底上げをするような影響力」を感じ、それこそが大学教育の在り方であるという信念を持っていて、その点からの現代(1970年代)の大学教育への批判にもつながったのです。
(注)カールトン大学におけるドナルド・ジョン・カウリングを指すと思われる。
本書第8章(邦訳 p.409~458を参照)
・グリーンリーフは、この講演が行われた1970年代になっても、大学が自分たちは世間から隔絶された世界を作り上げていると自己認識していることに疑問を呈します。彼は、「責任感のある人間になる可能性を持つ学生が、大学時代を、この先経験するものと同様に現実だとみなさねばならない(中略)学生たちは大学の環境で、その才能を目一杯伸ばしていくように行動しなければなりません」と学生に自覚を促しつつ、「しかし彼らには助けが必要なのです」と改めて大学の役割の重要性を述べます。
・19世紀後半に人口の 1%だった米国の大学進学率は、この時代(1970年代)には、50%に及んでいます。グリーンリーフは、もはや大学が「非現実的で、実際的ではない場」ではいられない、つまり特定分野の学究にのみに専念してはいられない社会的影響力の強い組織であるとの自覚を持つことを促します。その中で、シニア・フェローは学生とともに「実務」を行い、大きな刺激を与えることが重要な役割であると説きました。
・大学が「(リーダーの素質がある)学生を発掘」することは比較的簡単であるが、「奉仕しようという意志と明確な目的、決断が必要」であるというのがグリーンリーフの主張であり、また大学への期待です。そして、大学の中に「学究的な分野とそうでない分野とのコミュニケーションを活発に行うべきだという認識が、育ってきたことを感じています」とも認識するグリーンリーフは、ウッドロー・ウィルソン財団の、そしておそらくすべてのシニア・フェロー制度への応援を、「現在、私は学んでいる最中ですが、これまでに学んだものをみなさんと分かち合える機会を嬉しく思います」という言葉とともに述べ伝えました。
【参加者による討議】
・グリーンリーフがシニア・フェローとして訪れた大学から「現実の」世界の代表者として紹介されたことを批判している(日本語版、p.325)が、大学の言い分を受け入れるとすると大学は非現実の世界ということになる。何が現実で何が非現実なのだろうか。
・現実はビジネスの世界、大学は学術の世界にありビジネス界から隔離された世界と自己規定しているのだろう。グリーンリーフは、ことばに対して誠実であり、学術の世界であっても存在の価値と社会の役割があると考えて、自虐的に自己規定していることを批判していると考える。
・前回の会読範囲である「一般教養と、社会に出ること」(邦訳、p.300~p.316)で、大学においても社会の中にある不確かなことを学習すべきだ、と課外活動のプログラムを提案していた(p.313~p.315)。学術のもつ断定的な世界観は、一般社会では使えないことが多い。
・経営戦略論で日本の第一人者である大学教授も大学の経営学では経営ができない、と述べている。大学や大学院においてビジネス社会との接点がもっとあってしかるべきではないだろうか。
・自分は最近の大学の動向や卒業したての若い人を見ていると、大学と社会は完全に切り離されたというよりも、いろいろなつながりが出てきたように感じる。社会人による大学と大学生、大学院生へのフェローシップの浸透のためのメンター制度を準備、整備していくことを強化したらよいと思う。
・社会人であるフェローの役割は大学生をインスパイアすることだろう。学生もフェローの指導によって潜在能力に気がつくことが多いのではないか。学生側にもより強い関心と準備が求められる。
・この小論の最後の方で、グリーンリーフは「さまざまな分野で研究員が就いている地位を獲得する見込みのある学生を選び・・・(邦訳 p.326)」と述べているが、このことの意味や大学やシニア・フェローの役割は何だろうか。
・グリーンリーフの論では見込みのある学生を選ぶのは大学の役割となっている。その少し前では「大学は、自身の素質に気づくように学生を促す役割をシニア・フェローに頼ってはなりません(邦訳 p.323)」と明言している。シニア・フェロー自体は、教育行為自体を生業とする狭義の教育者ではないという意味だろう。
・シニア・フェロー制度も制度自体のオーナーが誰か、その職務の役割と目標といったことを慎重に読み取っていく必要がある。
・教育の平等、という視点で、スポーツ選手などと同じように当初から素質のある人を選抜することについて、違和感はないだろうか。
・間接的に聞いた話であるが、米国の高等教育は知識の伝達が目的であるのに対して、英国では高等教育にエリートを養成するための選抜の要素があるという。英国貴族に代表されるように社会の特権を得ながらも、国家危急の折は国民に先立って犠牲となるようなエリート、リーダーを選抜し教育している。
・経営戦略論で日本の第一人者である大学教授も大学の経営学では経営ができないと述べている。大学や大学院において、ビジネス社会との接点がもっとあってしかるべきではないだろうか。
・自分は最近の大学の動向や卒業したての若い人を見ていると、大学と社会は完全に切り離されたというよりも、いろいろなつながりが出てきたように感じる。社会人による大学と大学生、大学院生へのフェローシップの浸透のためのメンター制度を準備、整備していくことを強化したらよいと思う。
・社会人であるフェローの役割は大学生をインスパイアすることだろう。学生もフェローの指導によって潜在能力に気がつくことが多いのではないか。学生側にもより強い関心と準備が求められる。
・今の議論を踏まえると、重要なのは資質であると感じる。グリーンリーフの弟子のラリー・スピアーズはサーバントリーダーシップの属性を10にまとめているが(邦訳 p.572-573参照)、教職員がリーダーシップとして教えることができるのは、こうした属性や特性だろう。リーダーとなる人材選抜自体が目的ではなく、学生がリーダーシップ属性の説明を受けて、それをもとに自分の内なるリーダーシップの存在に気が付くかどうかが重要ではないか。大学の役割は気づきを促すことにある。
・「気づきを促す」というのは具体的にどうするのか。説明することで気がつくのだろうか。
・気づくこと自体も素質であり、本人の責任ということになる。
・気づきへのプロセスを多面的に準備しておくことが必要条件になると思う。
・前回会読した小論「一般教養と、社会に出ること」(邦訳 p.300~p.316)でグリーンリーフ自身が気づきに向けたプログラムを5つに整理して提案している箇所がある(邦訳 p.313~p.314)。ここで書かれていることも大学は気づきの場を提供する役割を担うことを意味している。
・こうした教育が本当に大学でできるのだろうか。また、本当に大学がそうした教育を準備する必要があるのだろうか。
・日本の大学では、学生が大学・大学院、あるいは文部科学省が用意した社会に出るためのプログラムに参加せず、自らの意志でポスドク(注)に留まってしまうケースが多い。どうやってプログラムに参加させるかが課題になっているという。
(注)ポスト・ドクターの略。博士号(ドクター)を取得しながら大学などでの正規研究員と
ならずに、非正規研究員として研究活動を続ける人。
・自らの意志でポスドクを選んでいる以上、放置しておいて良い問題だと考える。高等教育を受けながら社会での居場所を求めない学生、戦前は高等遊民と呼んでいたが、そうした人物は昔からいた。
・個人が自らの確固たる意志をもって選択しているのであれば、放置しておいてもよいという意見に賛成するが、惰性の中で自らの意志を明確にしないのは、社会問題としての側面もあるのでは。日本の大学進学率が5割近くになっている中で、単に教育のすそ野を広げた結果という話とは異なる課題だと思う。
・日本では少子化という問題も無視できない。少子化自体は、学生個人の責任に帰す問題ではないが、この状況のもとで、活動の度合い、すなわち active rateのアップが社会要件となっている。そのような人物は昔からいた、では済まない状況になっていると考える。
・とかく非難されがちなゆとり教育だが、たしか藤原和博氏だったと思うが、その良さを説いている。ゆとりがあることで学ぶ側に選択の自由が生じるということだ。
・強制的に学ばねばならないという状況から解放されると、自由な発想と行動でとてつもない成果を生み出す天才が誕生することがあるが、その一方で、多くの学生が怠惰な世界に埋もれる。
・知識の詰め込みでも社会全体の能力はそれなりに向上する。日本ではきちんとした整理のない中で「ゆとり」という概念が行動規範になってしまった。その結果、本来、日本人が持って勤勉という特性も失われたと思う。
・青山学院大学陸上部の原監督は、入部を希望する学生について陸上の名門高校などで上からの指示のみで猛練習を積んだ選手上がりの学生ではなく、自分自身で好きな道を見つけられる学生を評価して選抜している。今の就活生を見ていると資格、語学学習、留学といろいろな活動実績を誇っているが、それらの下支えとなる自己の意思がどこまで存在するのか、疑問を禁じ得ない。
・大学でのリーダー選抜やリーダーの育成、教育を考える場合、日本の大学の学費負担の問題を無視できなくなった。大学の学費の無償化についても検討すべき時代だ。
・大学の無償化となると国の財政が耐えられないだろう。意欲のない人への無駄金も発生する。貧困家庭への支援といったメリハリが必要。貧困問題は、学費のみに限らず、子供や若者の食生活を悲惨なものにしているケースすら増えてきている。
・奨学金の返済に追われ、ときに自己破産する人も出てきている。深刻な課題である。
・デンマークでは大学院まで無償であり、社会人、つまり就職した後で、新たな学びや学び直しといった目的で大学や大学院に再入学や進学することも珍しくない。ご存知の通り、社会保障が厚い分だけ税金も高い。
・税と社会保障は自分たちの社会をどう構成するかという考え方、すなわち国民の選択の問題だ。
・いずれにしても社会の衰退が問題化している中で、大学などの高等教育を通じたサーバントリーダーの育成は必要であり急務だ。その教育システムを的確に享受できる仕組みが経済的な面から脅かされていることへもっと注意を払っていく必要がある。