過去の活動報告

第18回 東京読書会 開催報告

開催日時:
2017年3月24日(金)19:00~21:00
場:
レアリゼアカデミー

第二期第18回(通算第73回) 読書会開催報告

「サーバントリーダーシップ」(ロバート・K・グリーンリーフ著、金井壽宏監訳、金井真弓訳、英治出版、2008年)の第二期東京読書会は、第5章「教育におけるサーバント・リーダーシップ」の会読を続けています。

今回は、この章の4つの小論の内、3番目のものを取り上げています。ペンシルバニア州カーライルにあるディキシンソンカレッジで1974年に行った、「一般教養と、社会に出ること」というテーマでの講演録です。未来を担い、社会のリーダーとなることを期待される大学生へ、大学で学ぶ一般教養(リベラルアーツ)の意義を説きました。大学教育の見直しが進む現在の日本にとっても重要な意味を持つ内容と思われます。(今回の会読箇所:p.300 5行目からp.316の 9行目まで)

【会読範囲の紹介】
・グリーンリーフは、ディキシンソンカレッジ(注)で過ごした数日間で、「多くの学生が職業やキャリアの見通しに並々ならぬ不安」を抱き、そのことで多くの質問、特に大学での経験が社会人の準備期間として適切か、という質問を受けたと話し出します。彼はその質問にはすぐに回答できないと言います。彼自身の若いころと比べて社会の変化が激しく、自分の経験が直接には役立たないということもありますが、大方の質問に対して、その回答を見つけるには「自分で学ぶ以外にない」というのが彼の本音だからです。
(注)1783年創立、1884年より共学化したペンシルバニア州立大学。リベラルアーツが中心。
現在は学生数約2,400人。海外40大学と留学協定を持つ国際色のある大学としても有名。
・そしてこの講演が「一般教養と、社会に出ること」という講演タイトルであることを踏まえて、一般教養科目で教える内容が実社会での「生活費を稼ぐ」ことや、将来の親となるときのその役割、あるいは市民としての役割と乖離(かいり)していることを認めつつ、一般教養を学ぶことの意義を説明すると述べています。
・「よい社会では、教育を受けられる人はすべて、まず一般教養を学ぶべきだ」というのがグリーンリーフの考えです。それは「特定の職業に直接役立てるのではなく、どの職業にも共通して役立つように」との思いが根底にあります。その一方で、どの職業にも役立つ一般教養とは何か、という難しい問題を生み出します。
・グリーンリーフは「自分の為の知識の追求のみに留まらず、社会の善と個人の尊厳をもたらすための、現実の仕事への社会的な参加を導くもの」というディキンソンカレッジによる一般教養の定義をもとに、「社会に奉仕し、奉仕を受ける」という彼の一般教養の学習に対する独自の目標を示しました。そしてこのことは、大学の役割が社会に奉仕することでその恩恵を受ける(現代社会に奉仕し、奉仕を受ける)、リーダーたる学生の養成にあり、それを具現化するための教育プログラムとして一般教養の意味が重要になると指摘しています。
・グリーンリーフは、現代を農業社会から「(政府、企業、大学、慈善団体などの)都市を基盤とした大組織に支配される世界」に変貌した社会だと定義して、人々がそうした社会の価値認識と諸問題への対処法を学びきれていない、と説明します。こうした現代社会をG.K.チェスタトンの初期の著作、「正統とは何か」(注)から、次のように引用して説明しています。「(前略)この世界がほとんど完全に合理的でありながら、しかも完全に合理的ではない(中略)人生は非論理の塊ではない。しかし論理化の足許をさらう程度には非論理的で(中略)見た目には確かに正確に見えるのだが、その下に不正確なところが隠れている(後略)」
(注)Gilbert Keith Chesterton (1874-1936)。原題はOrthodoxy、
グリーンリーフの論文では1924年の執筆とあるが、刊行は1908年。
邦訳「正統とは何か」(安西徹雄訳、新装版2009年、春秋社)
・そうしたあいまいさが私たちの世界の避けられない特徴である、とグリーンリーフ自身の目に映る実社会のあいまいな実態を列挙します。
- (現代の米国では)タバコやアルコールが規制されないにもかかわらず、同程度の毒性であ
るマリファナは犯罪となる。
- 受刑者への刑務所での教育が功を奏さず再犯率が高い。
- 社会に貢献する発想力と創造性に富んだ人が後に残すのは、「自由」ではなく「教育を混乱
させる熱狂」である。
- 遊び人で名をはせた大学理事が学生の要望に基づく規則の緩和に消極的。
- スポーツハンティング(自然保護との対立、矛盾)
- 問題の詳細な調査ではなく、短絡的な解決方法を求めて感情を高ぶらせる巨大組織のトップ
の存在
- 問題から目をそらし、なかったことにしたがる巨大組織のトップの姿勢
- 大学が混乱する時代(注、1970年代はじめ)に、学生たちが陥っている不安を直視しない大
学学長の存在
これらの例を挙げながら、グリーンリーフは、「仕事の世界とは非常に曖昧」であることに改めて言及しつつ、そうした中で学生が学ぶべきことは、「‘正しい質問をする’という高度な技術」である、と説きます。そして、「学生にその答えを与えられる人間がいることを期待するのも現実的ではありません(中略)、(社会に出ると)直面する問題に対して実際の場で対応方法を学ぶだけ」というのが彼の持論です。
・こうしたことを背景に、グリーンリーフは、「必要に迫られたらすぐに洞察や発想を受け取れるように、認識する力を鍛え」た上で、社会に飛び込むことを推奨し、さらに「信頼に足る根拠とは、自信の中にあります」と、未知なるものに飛び込む自信、必要な時に洞察ができるという自信、実際現場で見出した回答が正しいと信じる自信を体得するように勧めています。
・グリーンリーフは一般教養は実際に直面する複雑な問題への対処の素養を磨くためのものであるとして、現在(1970年代の米国の)大学での教養課程には、そうした要素があることは認めつつも、社会への準備のためのものという意味合いがまだまだ不足していると指摘しています。
・自らを組織理論家として理想主義者(注)であり、コンサルタントとして漸進主義者、あいまいなものを扱う仕事が好きである、と分析するグリーンリーフは、ディキシンソンカレッジへの助言を述べています。
(注)グリーンリーフは、このことについて、
本書第1章~第3章に収められた論文を読んでほしいと記述している。
・第一は学期ごとに目標を示すこと。大学の支援者である社会は、それ自体が「限られた資源」であること認識されるようになりました。その結果、支援者たる社会は有限な資源の使い方を検証すべく、大学の目標と成果を精査するようになります。このために大学は、常に「未来への流れに沿った」目標を示す必要がある、というものです。
・第二は、「現代社会に奉仕し、奉仕を受けるための準備」を当面は限定された大学教育プログラムの目標として掲げるというものです。スタート時点では不人気でしょうが、これを求める大学教職員、学生が現実に存在することを指摘しています。この教育プログラムに関わる教職員の条件を次のように述べています。
- 少数の学生を訓練するのに手を貸す目標に専念できること。
- このプログラムの目標を完全に理解していること。
- 学部手続きなどを含むプログラムの推進を担う実行力があること。
・当初は単位の対象とならないこのプログラムの実行には、新入生の有志を集めて団結力の高いチームを作るように提言しています。その際の勧誘の例示を次のように行っています。
- 自分たちの目標は、積極的で団結力のある学生グループを作ることである。
- 大学という共同体を現実の典型的な共同体として理解すること。
- 教職員のリーダーシップのもと、大学生活を通じて人間としての成長の測定と卒業後も成長
しつづけるための計画、管理する方法を学ぶ。
- 将来経験するさまざまな組織とのかかわり方を学び、メンバーと教職員に相談できる。
- グループの団結のもと、他者に奉仕する使命を達成する。
- メンバーはこのグループでの活動を最優先することが求められる。
・グリーンリーフは大学を現実社会とは隔絶された、社会の練習場と考えることを拒みます。

【会読参加者による討議】
・本書(日本語版)のp.303に「社会に奉仕し、社会から奉仕される」という表現が出てくる。この小論の中で何度も出てくる表現であり、この小論以外でも散見する。この表現の意味するところは何だろうか。キーワードは「奉仕」だと思う
・ここの表現は、原書を忠実に訳したものだろうが、普段使うことばであれば「社会に貢献し、社会から恩恵を受ける」といった意味だろうか。
・奉仕する/奉仕されると書かれている点は、社会貢献が結局のところ他者に対する支援や貢献であり、それはインタラクディブ、相互に関わり合いのあるものだからではないか。他者への貢献の姿勢については、よく言われるが、同時に恩恵を受けるときの心構えも問われると考えている。
・他者に働きかけるときは、相手が何をしたいと思っているのか、しっかり洞察して見極めること、さらに他者との共感が成り立つことが必要条件だ。

・大学教育における一般教養(リベラルアーツ、Liberal Arts)の役割を整理したい。
・本書(日本語版) p.305からグリーンリーフが「私の色眼鏡と通して、(社会の)曖昧な」実態や決まり事を並べている(本報告前半の要約参照)。実際の問題として、現時点では、世の中とはそのようなものだ、と言いながら、敢えて割り切って受け入れるべきもの、改善を必要とするもの、といろいろある。一般教養の学習は、そうした割り切れなさを正しく割り切るための、いわば一人前の社会人になるための職業訓練の一種と思っている。
・中国の奥地での4年間の赴任経験がある。新たに作った海外合弁事業の初代責任者として赴任したが、本社からの具体的な指示や忠告もない手探り状態だった。そのような中での自分の味方は古典だった。王陽明などを読んだ。そこで培った経験が現地の人たちとのコミュニケーションや関係を活発にする要素だったと思っている。
・自分も最近は寺に通って、親鸞の正信偈や教行信証(注)などを読んでいる。こうした書物から大きな世界をとらえることができると考えている。
(注)教行信証は浄土真宗宗祖、親鸞(1173-1263)による真宗の根本聖典、
正信偈は真宗の仏徳や原理を韻文化したもの、教行信証の末尾に収められている。
・本書(日本語版)のp.309からp.310にかけて、3つの自信を示している(本報告前半の要約参照)が、自分はこの「自信」を「経験」と読み替えることができると思う。「奉仕すること」と「奉仕されること」はどちらが先行するのだろうか。自分は前者の「奉仕すること」ではないかと思う。働きながら年齢を経るにつれて「社会に役立ちたい」という思いが強まっている。
・自分は逆に「奉仕される=恩恵を受ける」という経験が先行するように考える。その経験が「ほかの人に与える」という動機を作るという流れになるのでは。
・社会がどうあるべきか、ということが前提ではないだろうか。その中で奉仕する、奉仕されるという社会活動が生じる。両者は順を織りなすことでもあり、視点を個人から社会に動かせば、順序の問題はなくなる。

・陽明学に「知行合一」という有名な言葉がある。直接的には知識と行動の一致のことであるが、その知識とは世の中を良くするためのものである。世の中の土台としての学問、それが一般教養なのではないか。
・サーバントリーダーシップフォーラムなどで、協会は「サーバントリーダーシップとはいわばOS(注)である」という説明をしている。パソコンでもスマートフォンでもさまざまなアプリケーションがきちんと動くようにOSが管理しているのだが、それにならえば、組織や人を動かすさまざまな技法である会計や契約実務などの実学がカバーする分野がアプリケーションで、その通底にある原理が一般教養ということかもしれない。
(注)Operating System。コンピューターを動かす基本ソフトウェア。
データ、アプリケーション、ハードウエアなどのコンピューター資源、
システム全体が正常に稼働するように管理するソフトウェア。
・いまの日本の大学の一般教養科目は、単に大学1、2年向けの礎課程の教科という位置づけになっており、本質的な意味でのリベラルアーツとは異なっている。おそらく米国の大学も同様だろう。
・ヨーロッパ中世の大学、つまりユニバーシティでは、神の世界を上に置いた中で、人間が扱う世界の原理を学ぶことをリベラルアーツとして学んでいた。自然科学万能の現代からは、中世は頑迷で遅れた時代にしか見えないが、人智が及ばない世界があることを認識して、謙虚な姿勢で人間の世界の原理を追求する姿勢にあふれている。アイザック・ニュートンは力学分野での近代物理学や微積分の祖として自然科学者としての印象が強いが、彼は神の存在、神の世界を前提に置いて、その中での原理を追求し、現代に続く偉業を達成した。
・実学をほんとうに実学たらしめるために一般教養があるのだと思う。社会は不完全であり、不合理な面も多数ありながら成り立っている。
・「正しい問いをすること」というグリーンリーフの教えも深い意味がある。社会に不合理が存在することを避けることができない以上、「正しい問い」を行う姿勢の教育は重要だ。
・その意味で古典に学ぶことが多い。歴史の中に現代につながる教訓がある。
・長距離ランニングのトレーニングに「初心者あえてゆっくり走る」というものがある。それによって、足、脚の毛細血管が鍛えられ、長距離をしっかり走る土台が作られる。古典を学ぶことはその話に通じるものがあるように思った。
・サーバントリーダーシップの本質は、謙虚な姿勢で真理を追究することにある。グリーンリーフはリーダーが真理への道を見出すために、サーバントとしての心構えと、本物の一般教養の学習を求めていたのだろう。

・今回の会読範囲、すなわちグリーンリーフの講演では、「保守」に関する歴史的名著であるチェスタトンの「正統とは何か」(注)を引用し、これが重要なモチーフになっている。正当(justness)は、正統(orthodoxy)に宿るということだろうか。真理を追究するという点で、リーダーシップの役割について、いろいろと考えさせられる討議だった。
(注)Gilbert Keith Chesterton (1874-1936)著Orthodoxy。
邦訳「正統とは何か」(安西徹雄訳、新装版2009年、春秋社)