第二期第16回(通算第71回) 東京読書会開催報告
「サーバントリーダーシップ」(ロバート・K・グリーンリーフ著、金井壽宏監訳、金井真弓訳、英治出版、2008年)の第二期読書会は、今回から第5章「教育におけるサーバント・リーダーシップ」に入ります。この章は4つの小論と章全体のまとめである前文で構成されています。今回は前文と最初の小論を会読しました。敬虔なクエーカー教徒(注)でもあるグリーンリーフが1973年の初めに開催されたクエーカー教徒教育審議会での、「理事に向けてのセミナー」における提言です。教育熱心なことでも有名なクエーカーの教職理事セミナーには、高等教育のみならず初・中等教育の理事も大勢集まっていたことが想像されます。(今回の会読箇所:p.269 からp.287の最後まで)
(注)17世紀、イングランドでジョージ・フォックスによって創設された宗派であるキリスト友会とその信徒への呼称。平和、誠実、平等、質素を貴ぶ。現在の信徒数は全世界で60万人(北米12万人)、わが国では新渡戸稲造らが同会信徒である。
【前文】
グリーンリーフは、この章の前文を建築家のフランク・ロイド・ライトが若き日に、「芸術とは何か」というタイトルの講演で、アンデルセンの童話「人魚姫」の一部を朗読して、「みなさん、これが芸術です」という一言を発したというエピソードから始めています。彼はこのエピソードを「経験から学ぶことを第一とし、抽象概念を扱うことが苦手な」アメリカの教育問題の象徴として挙げました。
「われわれが必要とする教育と、現在の教育との間にはギャップがあり、そのギャップについて社会的不安が高まる」と述べるグリーンリーフは、アメリカの教育プログラムの問題を次の3つにまとめています。
・リーダーとなる素質がある人材にリーダーシップを教え込んでいない。
・リーダーの社会的地位に対する教育者の偏った姿勢。
・価値観の指導に関する現場の混乱。
グリーンリーフは、これらの問題意識をもって「教育におけるサーバント・リーダーシップ」について研究し、セミナーや投稿を通じて彼の見解を表明しています。
【フレンズ・スクールと「権力と権限」】
この章の最初の論文は、1973年の1月にクエーカー教徒教育審議会主催のセミナーでおこなわれたグリーンリーフの「理事に向けてのセミナー」の原稿です。
このセミナーでのグリーンリーフの提言は、「教育全体のプロセスは、今後数年のうちに徹底的な大改革に向かう」という彼の予想で開始されます。教育の効果を認めて投資を増やしてきた米国社会には、その投資効果に対する疑問が生じ、不満に高まってきつつある状況を察知しつつも、「学校」に代わる仕組みがないのが実情です。その中で、グリーンリーフは、「今こそ新しく築き上げるときである」と高らかに唱え、彼の教育におけるリーダーシップ論を展開していきます。
[権力と権限]
権力と権限の言葉の使い方はさまざまですが、グリーンリーフは権力という言葉を「強制する力」という意味で使用し、そこには「公然と強要する」「陰で操る」を含むと定義しています。そして権限については「権力の使用を正当化する認可」という意味で使用するとしています。
グリーンリーフはこの二つの言葉から最優先の問題を導き出しました。
問題1 - ある人たちは何を学ぶべきか知っているので、そういう人に権限を持たせるのが当然だという判断 - これは支持を得ているのだが。
教育者は、教えることについて学生や生徒よりも自分たちの方が多く知っているという考えから、学習の内容は教える側が定めるものとすることは常識だと考えています。グリーンリーフはこの常識に対して、「判断する際には間違いが起きる(間違いどころか悪かもしれないが)可能性があることをきちんと知らせるならば、その理解によって、学生の成熟度は増し、組織化された教育に対する彼らの尊敬の念が高まるかもしれません」と訴えます。彼は、教師、医師、看護師、ソーシャルワーカーなどの職業人が「受け手が最も必要とするものを、受け手以上に自分たちは知っている」と思いがちであることについて、ダンフォース財団のカニンガム元会長の著作にある「与えることは倫理的に見れば危険」という記述を踏まえつつ、「思い」が本来の目的を逸脱して、悪の発生源となる危険性を指摘しています。その指摘は、「強制すること」、さらには「与えること」から悪が発生する可能性に拡張され、ボランティア組織で「非営利という姿勢を美徳と考えること」がモラルを危険に晒す可能性がある、という例示もなされました。「自分たちは理想を体現していると自覚するとき、モラルは危険性にさらされているのかもしれません」という警句は、友人の社会学者の「職員の個人的な人間関係の質は、組織が提唱する理想的な姿に反するものとなる」という言葉を引用しながら繰り返され、とくに企業においてより強い危険があると述べられています。善意の持つ危険性について強い思いが見られます。この危険に対する彼の考えは、「本当の意味で試金石になるのはどんな組織に思いやりを求められるかということです」という意見を表明し、その舞台は「大企業」であるというのが彼の意見です。
「すべての権力は滅び、絶対的な権力は必ず滅びる」というアクトン卿の格言を正しいと思うグリーンリーフは、組織における権力の利用についての注意点を以下のように述べています。
・自分たちの活動がどんなものであれ、そこから悪が発生する可能性がある、と自覚する。併せて権力を使う教員をはじめとするすべての人々にそのことを自覚させる。
・組織内の権力バランスがきちんととれているかを確認する。教職員の権力について、生徒や保護者、理事、教員以外の職員にも何らかの権力を持たせる。
グリーンリーフはこれらの発言を強制で進めるのではなく、ここから対話が生じ、それをもとに全員がさらに賢くなることを望んでいます。権力の持つ危険性への対処を自ら率先していると思われます。
問題2 ? 教育システムは、すべて強制のもとに成り立っているという事実。まず、十六~十八歳に達するまでは学校に通わせること、という法的義務がある。次に、学位証明書を餌にして、学究的な教育を続けさせるという強制力が存在する。学歴は高校卒業資格から始まり、博士、ときにはそれよりも上まで続く。
グリーンリーフは、この問題について義務教育や教育による資格認定がなくなったら、生徒にはどのような影響があるかと課題設定することから始めます。新しいテクノロジーによって失業した人の職能育成のためにグリーンリーフが代数を教え、その人が高校レベルの代数を迅速に習得したという成功体験は、代数に興味のない生徒に教えなければならない義務教育では通用しない話、というある校長先生の意見に失望します。彼はモチベーションを持ち合わせない生徒への教育者の努力の浪費を指摘し、その解決方法を問いかけます。
[未来への希望?]
前章での権力についてのグリーンリーフの二つの問題提起、「よき行いという考えに潜むモラルの危険性」、「教育プログラム全体に敷かれている強制力の拡大」、この二つの問題に、グリーンリーフは次のような提言をしています。すなわち、生徒に対処法を学ぶように促す以上にできることを当面の最善としつつ、「長くて暗いトンネルの果てに光はある」と信じる者に光が存在する、とデンマークでの国民高等学校の例(注)を引用して、「若者にふたたびやる気を起こさせる」という課題解決において、デンマークの例は現代のアメリカにも適用できるという主張です。
(注)本書第1章(日本語版 p.81-p.84)参照。19世紀、貧しかったデンマークに、グルントヴィの長年の努力で国民高等学校が多数設立され、20世紀のデンマーク反映の基礎となった。
さらに、19世紀のデンマークと20世紀後半の米国は、ともに社会的抑圧の下にあり、その改善には若者の意欲が不可欠である、中等教育に期待されるのは、その意欲を育てることだ、と展開します。この実現に向けてなしうることは、「何かボランティア的なこと、人間としての精神を高めることに挑戦」するように、その中でさらなる前進への衝動を感じるかどうかが重要だ、と促しています。
この主張を裏付けるために、グリーンリーフは、彼同様に敬虔なクエーカー教徒であったエリザベス・バイニングによる、やはりクエーカーの聖職者であったルーファス・ジョーンズの評伝「人生の友」(注)を引きつつ話を展開します。
(注)エリザベス・バイニングは戦後の占領時代の日本で、皇太子殿下(現、天皇陛下)の家庭教師を務めた。本書日本語版の注記に「人生の友」の邦訳なしと書かれているが、2011年に「友愛の絆に生きて ‐ ルーファス・ジョーンズの生涯」(山田由香里訳,教文館)として刊行されている。
「ジョーンズなら‘変化’について何かしら助言してくれるだろうと、私は確信しています」とグリーンリーフは、バイニングが描くルーファス・ジョーンズを読みながら思索を続けます。変化が急進的で痛みを伴うとしても更なる変化が必要であり、変化の中で生き残れた場合の生き方、変化それ自体を目標とする生き方への反省などです。
彼の変化に対する考え方は、中国の古典の「易経」(えききょう)(注)に至り、第二次世界大戦時の中国学者ヘルムート・ヴィルヘルムによる易経の研究に言及していきます。「(前略)事実を考えてみれば、常に変化していることにたちまち傷つくでしょう。修練の足りない人は、特別な事象しか変化と認めません(後略)」。変化は自然の流れであり、停滞は死のみならず堕落をもたらす。変化とは無意識下の自発的発展傾向である。安全とは正しい場所にいることを自覚することであり、安心感とはものごとが正しい方向に進む確信である、など三千年近く前に表わされた易経にからヴィルヘルムの著述を引用してグリーンリーフは教育問題の本質に切り込みます。グリーンリーフは責任感を持って変化に対処することの厳しさに理解を示しつつ、「冷静に考えて自分の道が正しいと思うなら、ただ前進あるのみ」というメッセージでこの提言を結んでいます。
(注)中国古代、周の時代の書物。「卜(占い)」の文書にさまざまな天文、地理、物象などを陰陽変化の原理、解釈が追記されている。孔子により集大成されたとして四書五経の五経のひとつとされる。
【会読参加者による討議】
・この章全体を説明した「前文」にある、学校の奉仕、つまり使命は生徒を上流階級に送り込むことではない(p.272)、という点に注目した。学校、ことに大学などの高等教育で何を教えるべきか、この後に書かれているリーダーシップや価値観の指導については、米国のみならず、わが国でももっと注意が払われるべきだろう。
・サルマン・カーンが主宰するカーンアカデミー(注)は、学習教材を大量にYouTubeに載せるプロジェクトを展開している。やりがいを求めて、多くの人がこの教材を利用して勉強している。教師が一方的に与える教育から、教わる側が求めているものを明確にして自主的に学ぶことにシフトしている。
(注)サルマン・カーン(1976~)。米国生まれ(バングラデシュ系)の教育者。2006年よりカーンアカデミーを主宰。
・前文の後に読んだ、職を得るために代数の知識が必要な成人が高校一年で教わる課程をすぐに体得したという話(p.281)は、学ぶ側の意欲が鍵であり、カーンアカデミーはそこを踏まえていることが成功につながっているのだろう。
・親族が日本に来る外国人労働者に、夜間、日本語を教えるボランティアをやっている。日中の激務の影響もあって、生徒の外国人労働者の意欲が低かった。あるとき学習教材となる日本語の書籍を自分で選ぶようにさせたところ、学習意欲が劇的に改善した。生徒は、それぞれがもっている課題に基づいて教材を選んでいるので、自然に意欲的になる。
・教育は生徒を上流階級に送り込む手段ではない、というグリーンリーフの主張は、翻っていえば、当時の米国の教育が均質化していることを指摘しているのではないだろうか。40年以上昔の米国でグリーンリーフが感じた危機感は、まだ解決されていない。トランプ大統領を選出した昨年の選挙、さらに先日の大統領就任後の動き、そのバックボーンとなる米国民の考え方などに思いを巡らせると、そう感じざるを得ない。
・クエーカー教徒教育審議会の講演の中で、グリーンリーフが「まず、自分たちが行う活動がどんなものであれ、そこから悪が発生する可能性があると認識しましょう」と教育者の善意に対して強く警告している(p.279)。わが身を振り返ると、自分の下に配属されてきた新卒新入社員に、最初はすべてを指図しながらも、徐々にその人間のもっている適性に合わせた教育をしなければならないと自覚しつつ、現実の仕事を前に、達成できないでいる。これが「悪の発生」の根源かもしれない。
・箱根駅伝で青山学院大学を3連覇に導いた原監督は、大学生選手など若い人にものごとを教えるときに、「これは、あなたのためのもの」と伝えるようにしているとのこと。教育において不可避の「型にはめる」という段階で、このことをきちんと伝える必要がある。
・古来、芸事の習得に「守・破・離(しゅ・は・り)」という段階があると言われている。師匠の教えに従う時期、その殻を破る時期、師匠から離れて自分の型を持つ時期の意味だ。教える相手がどの段階にいるのか、教える側は教わる側が守から破に移行するところをきちんと把握して教え方を変えないといけない。
・「守」の時期は重要で不可欠。落語の立川談志師匠(注)は、弟子にまず古典落語をマスターさせた。彼自身もそうだ。その上で彼も多くの弟子も破天荒な落語を披露しているが、基本を踏まえたものは「型破り」、基本を体得せずに無軌道にやっているのを「形無し」と呼んで区別していた。
(注)7代目(自称5代目)立川談志、1936年~2011年。「型破り」な落語で高い評価と人気を博す。現在も落語会に大きな影響を持つ立川流を創設。参議院議員、沖縄開発庁長官も務めた。
・趣味でサックスを習い始めたのだが、先日、尾崎豊の「I Love You」を思うままに気持ちよく吹いていたら、先生から「それは音楽の型を知らない演奏」と怒られてしまった。
・教える側が自己陶酔に陥って、本当に教えるべきことと教わるべきこととがずれてしまうことが多い。奉仕の精神がいつしか押し付けになることもある。
・コンビニエンスストアチェーンのセブンイレブンでは、「相手のための仕事」と「相手の立場に立った仕事」の違いを強く意識するように言われる。「セブンの商売では、商品の売れ筋は買い手が決める、売り手にできることはない」ということを理解し、買い手の立場に立つことが重要ということで、教育にも適用できる話だ。
・この章の冒頭のフランク・ロイド・ライトによるエピソード、芸術について語る、としてアンデルセンの人魚姫の一説を朗読したこと、について感じることが多い。「芸術作品」を読み上げることで、聴衆に何かを感じさせる。「気づかせる、感じさせる」ことの重要さを示している。
・一方で、現実の教育の持つ難しさも認識しないといけない。わが国では四半世紀前から「ゆとり教育」が、失敗と評価されて撤回された。ゆとり教育への移行と揺り戻しを見ていると、ゆとり教育を導入した時に、グリーンリーフが指摘した3つの課題(本書p.271-272、本報告冒頭)の認識が共有されていなかったのだろうと思われる。日本の学校教育がもつ欠点だろう
・慶応大学の安藤寿康教授が著書(注)の中で、諸外国の学校教育と比較して、日本の学校が、特に初中等教育において、生徒に多様な経験を積ませていることを評価している。著書では多様選択肢のある部活動や修学旅行が挙げられているが、その他にも小学校から実施している社会見学、掃除当番や給食当番の体験も含まれるだろう。多くの国で、所得格差 → 成人前の社会経験量の格差 → 才能伸長・発揮の機会格差 → 所得格差・・・と連鎖するケースが見受けられるが、わが国では初中等教育で、生徒に多様な経験させることがこのスパイラル防止につながっている面がある。
(注)安藤寿康著「日本人の9割が知らない遺伝の真実」(SBクリエイティブ(SB新書),2016年)
・教育を受ける側が教育の中身、つまり対象に興味を持つことが肝心。仕事上の後輩であれ、家庭での子女であれ、教える側は教わる側をそこに導くことが任務だ。
・子供食堂などの支援活動を行っているが、今日の討論を通じて教育に関する自分なりの「答え」を出すことが求められていると感じた。自分の考えを自分のことばで評価して、しっかりと熟成させていくことが必要だと痛感する。