2025年3月14日(金)19:00~、サーバントリーダーシップ読書会(オンライン)を開催いたしました。
今回の範囲は、ロバート・K・グリーンリーフの「サーバントリーダーシップ」(金井壽宏監訳、金井由美子訳。2008年、英治出版)の
・300ページ5行目 「一般教養と、社会に出ること」から
・316ページ9行目 「「私が一年生のときに、こんなことを言ってくれる人がいればよかったのに」と彼女は言ったのです。」まで
でした。
全員で会読した後、意見交換しました。
今日の読書範囲ではグリーンリーフが一般教養(リベラルアーツ)の重要性を繰り返し説いている。
自分は専門家を育成する大学で教えていて、学校にはその進路を希望する学生が集まる。
そうした学生を見ていると、学部生にはリベラルアーツを勉強したことの印象が残らないようだ。
これはなぜなのだろう。
彼女らは何によって成長できているのかと疑問に思うことがある。
自分も似たような経験をしている。
自分が所属する企業の採用1次面接では、大学の3年間で自分がどのように成長してきたか、これからどう成長していくつもりかを言語化してもらいたいという意図で問いかけている。
だが多くの学生からの回答は、学業ではなくアルバイトや部活の話になってしまっていて、大学生が自分の糧とするべきものが何かというところに考えが及んでいない。
日本に工業高等専門学校ができた初期の頃に入学した。
高等専門学校は主に理系の専門家を育成するための学校で、そのカリキュラムは基本的に専門科目を積み上げるものであったが、教師によっては自分の価値観のもとづくいろいろ話をする先生もいた。
広い意味でのリベラルアーツである。今思うとそれらが自分の人生を築く上で役に立っている。
すぐに役立つ人材を作るのが職業訓練であるとすれば、人格をはぐくむリベラルアーツの教育には、面倒な長い過程を必要とする。
軍人の養成は職業訓練の最たるものといえるが、旧海軍の山梨勝之進大将は 「すぐに役立つものは、すぐに役に立たなくなる」と言っていた。
軍隊が組織である以上、視野広く思慮深い人材が必要ということでの主張だったのだろう。
リベラルアーツ、つまり教養を学ぶということは、西洋ではギリシャ・ローマの文化を起源に、その哲学や古代科学とキリスト教神学の知の格闘の過程に入ることに、自らを自発的に組み込むことに他ならない。
日本の大学は明治維新後にそれらの形だけ真似たもの。
日本語で勉強というが、勉め(つとめ)を強いる(しいる)、つまりつらいものであり、その時間が過ぎれば忘れてしまうようなものになっている。
教育とは本来、奉仕する存在であることを忘れてはいけない。
大学生だった1990年代に自分の所属大学を含む3大学のゼミナールで一つのテーマで討論を行った。
準備を怠っている自分たちに指導教授はあえて何も言わなかった。研究発表のときは、案の定、他の2大学に圧倒されてしまった。
これに目を覚まされて、遅まきながらゼミ員一同で必死になって挽回を図った。
そうなることを見越した教授の対応も一つの教育を通しての奉仕だったのかと思う。
グリーンリーフは「現代社会から奉仕を受ける」と何度も書いているが、この言葉が難しい。
奉仕はだれか他者のためにという精神である、一方で奉仕を受け入れることで奉仕を受け入れた人は、そこから何かを学べるということになる。
これも人としての成長の一つの姿なのだと思う。
などのご意見・ご感想がありました。