過去の活動報告

第33回 東京読書会(第二期)

開催日時:
2018年6月22日(金)19:00~21:00
場:
レアリゼアカデミー(麹町)

第二期第33回(通算第88回) 東京読書会開催報告

ロバート・K・グリーンリーフの「サーバントリーダーシップ」(金井壽宏監訳、金井真弓訳、英治出版、2008年)の東京読書会は、会場のレアリゼアカデミーが麹町に移転して最初の読書会を行いました。新しい場所での初回と同時に、第二期の読書会の最終回ともなった今回の読書会では、2002年に本書の改訂版が米国で刊行される際に、「7つの習慣」で有名なスティーブン・コヴィー(注)が寄せた「前書きに代えて」を会読しました。コヴィーは、晩年、彼の代表作であり主張の核であった「7つの習慣」を土台に、「第8の習慣 “効果性”から”偉大“へ」を著しました。スティーブン・コヴィーは21世紀を迎えて、彼の7つの習慣の思想を集大成して、リーダーは自分自身とメンバーのボイス、つまり内発的な声に耳を傾けるようにと第8の習慣の考えに発展させてきました。この道程にグリーンリーフのサーバントリーダーシップの考え方がさまざまな影響を与えたのではないでしょうか。そのようなことを思い起こさせる寄稿です。(今回の会読範囲 p.521~p.549、「終わりに」の最後まで)

(注)1932年10月24日~2012年7月16日。米国生まれ。生前は、作家、経営コンサルタントなどの多面的に活躍した。主著の「The 7 Habits of Highly Effective People」最新訳の日本語版は、「完訳 7つの習慣 人格主義の回復」として2013年に、また「第8の習慣“効果性”から”偉大“へ」が2017年にいずれもキングベアー出版から刊行されている。なお7つの習慣の邦訳初版は「7つの習慣 成功には法則があった!」(1996年、副題は本邦で付された)として、100万部超の販売数となっている。

【会読内容】
・この前書きが寄稿されたた21世紀開始直後の時代について、コヴィーは「市場とテクノロジーの劇的なグローバル化」を全世界にわたる巨大な動きの根源として挙げ、それが「時を超えた普遍の原理(中略)とりわけ、人間の精神に“気”や“生命力”、そして創造力を与えてくれる原理」というもう一つの時代を動かす根源に影響している、と述べています。
・コヴィーはそうした時代の中で「根本的で普遍的な原理のひとつが、サーバント・リーダーシップという考え方だ」と述べて、社会や経済がグローバル化する中で、組織の成員に権限を与えて能力を高める(エンパワーメント)ことが必要であり、それを実現するために上司がサーバントとなるようなプロセスを組織的に育てるための構造や体制が必要であり、ここに組織の存廃の原理があると主張しています。
・さらに、トップダウン・マネジメントが時代遅れとなり、これに代わって、「ストレンジ・アトラクター」、すなわちビジョンに引き寄せられて人々が一致団結し、共通目標に駆り立てられるようになると主張しています。その中で、「ただ機能するリーダーシップ」と「持続するリーダーシップ」を区別し、後者には心の中の道徳律すなわち良心が宿ると力説しました。
・コヴィーは良心に基づく道徳的権限について、それがサーバントリーダーシップの別名であり、「生まれつき持っている力と選択の自由を、節度を持って使うことで出てくるものだ」と説きます。人々は良心に従って生き、行動する人を信頼し、心を許す。これが道徳的権限の始まりだ、と主張しました。そして道徳的権限に関する彼の考えを展開していきます。「道徳的権限とはサーバントリーダーシップの別名と言っていい。というのも道徳的権限とはリーダーとフォロワー(リーダーに従って動く人)が相互に行う選択のあらわれだからだ」「リーダーもフォロワーも、ともにフォロワーだと言える。その理由は何か。両者とも真実に従って(フォローして)いるからだ。」「道徳的権限とは相互に高め合い、分かち合うものなのだ」と熱く訴えかけました。
・そして、コヴィーは、この道徳的権限の特徴を4つ挙げています。
1. 道徳的権限または良心の本質は、犠牲である。
自分自身や自分のエゴを犠牲にしてでも、より高い目的や大義、原理を目指すこと。犠牲は身体[body]、 良心[mind]、敬愛[heart]、精神[spirit]にいろいろな形で現れる。そして良心は心の内にある小さな声であり人々に力を与える(エンパワー)、一方、エゴは専制的で横暴、横柄であり人から力を奪う。
2. 良心によって、われわれは身を捧げるに足る大義の一部になろうという気にさせられる。
ナチスの強制収容所の中で、ヴィクトール・フランクル(注)は、「私に必要なものは何だろう」という問いかけを「私が必要とされるものは何だろう」に改めました。このことでフランクルの世界観は変わり、内なる道徳の声である良心に耳を傾け、この問いへの答えを見つけたのです。問いの方向を前記のように変えることで、人の良心の扉が開き、その影響を受けられるようになる、と心と精神が変化することを指摘しています。
(注)1905年3月26日~1997年9月2日。オーストリア生まれの精神科医、心理学者。ユダヤ系の出自のため、第二次大戦中にナチス強制収容所に収監される。ドイツ敗戦を機に奇跡的に生還した後に、その経験をもとに「夜と霧」(霜山徳爾訳、1956年。池田香代子訳、2002年。いずれもみすず書房)を執筆。戦後は多数の著作か講演の実績がある。
3. 目的と手段を切り離せないと言うことが、良心からわかる。
目的と手段の両方とも大事であり、分けて考えられないことをカコヴィーはカント(注)を引用して述べています。それはガンジー(注)が示す「良心なき快楽」「人格なき学識」「道徳なきビジネス」などわれわれを破滅させる7つの事例が、高い目的であってもその手段が誤りであれば、「結局は、手の内で塵と化す」ことからもわかると説明しています。そして、手段と目的の両方が重要であることは良心が教えてくれること、良心は「目的が手段を正当化する」というエゴを認めないことを強調しました。
(注)イマニエル・カント。1724年4月22日~1804年2月4日。ドイツ(プロイセン)のドイツ観念論哲学の祖とよばれ、純粋理性批判などの著書でも知られる。
(注)マハトマ・ガンジー。1869年10月2日~1947年1月2日。非暴力、不服従を旗印にインド独立の父としてインドの民衆を指導した。
4. 良心によって、人と人が結びつく世界へ導かれる。
「良心のおかげで、われわれは独立した状態から、お互いに頼り合う状態へと変化する」 これによりわれわれは、ビジョンや価値観を共有する構造や体制という制度かられた規律を受け入れます。良心は、情熱を互いへの情熱、すなわち思いやりに変えます。「思いやりとは情熱を相互依存的に表現したもの」であるとして、大学の清掃係の名前を知っているかというテスト問題が出され、それを出題した教官から「出会う人すべてに注意を払うように」と指導されたジョアン・C・ジョーンズの経験談を引き合いに、コヴィーは、「良心に従って生きることで誠実でいられ、心も平安であること」、そしてそこで作られる相互の関係が、リーダーとフォロワーの相互が頼るリーダーシップが形づくられる、と説きました。
・コヴィーは道徳的権限を「道徳的性質+原理+犠牲」と定義している、と言います。現実の生活の大半では、一定のやり方や慣習に従う方が良いとしつつ、重要な場面では、自らの犠牲をいとわないことで、慣習に流された不適切なものではない「普遍の原理と一致するやり方」で振る舞うことができるとコヴィーは力説しました。犠牲は道徳的権限の本質であり、謙虚さはその礎となる特性であるとコヴィーは主張しています。
・道徳的権限ということばは、命令や力をイメージする権限ということばと、道徳的ということばの合成で、「なんとも逆説的」とコヴィーは言います。彼は、この逆説的で難しい局面において、「道徳的支配はサーバントであること(中略)によって達成され」るとして、「彼らが自らの意志で応じるのは、サーバントであると証明され、信頼されていることを根拠に、リーダーとして選ばれた人に対してだけだろう」というグリーンリーフのことばを参照しました。そして、「真に優れた組織のまさにトップの人間はサーバント・リーダーだ」と断言しています。
・コヴィーはサーバントリーダーシップが現代アメリカ、そしてさらに世界中の心の傷を癒やせると期待を寄せています。それはサーバントリーダーシップの原理が普遍的なものであるからです。コヴィーはサーバントリーダーシップに満ちあふれた世界を夢見つつ、本書の再版を進めたグリーンリーフ・サーバントリーダーシップ・センターへの謝辞と祝辞をもって寄稿を終えました。

【参加者による討議】
・コヴィーはヴィクトール・フランクルがナチスの強制収容所で、問いかけを変えることで良心の扉が開かれた、と述べている話を引用している(日本語版、p.25)。この話の少し前には逆に、フランクル自身の良心に従って質問を変えていった(日本語版、p.24)とあり順番が逆だ。どちらかが正しいのだろうか。あるいは鶏と卵の関係のように、どちらが原因でどちらが結果と断言できないことなのだろうか。
・人の存在を考えるときに、その人のbeing、すなわち存在やあり方という側面と、doing、行動という二つの側面がある。われわれは、自分にせよ他人にせよ doing の世界を分析してしまうことが多く、原因と結果についても一方向で考えがちだ。だが、フランクルの良心の扉が開かれたというこの話は、彼のbeingの世界でのことだ。彼自身の心のありようの変化を時系列で考えるのは、そぐわないかもしれない。
・Beingという静的な状態で考えるよりも、今の状態である being とあるべき姿、ありたい姿の to be として考えることが自分には腑に落ちる。遠いところにある目標に到達するイメージだ。
・他の囚人への、この苦しみの中でなぜあなたは死を選ばないのかというフランクルの問いかけから、問いかけられた人が「(自分が死ねば)妻が苦しむから」と答えたことに感じるものがある。自分が周囲にこうした問いかけをできているのかという思いだ。
・ナチスの強制収容所という、人間の極限的世界での話であり、参考にならないと思う。
・われわれの日常には、今もこれからも存在しないような極限状況ではあるが、逆に極限の状況下でのことであるが故に、本質だけの問いと答えとなっている点もあるのではないだろうか。

・「経営者の役割は(中略)人々の内側から外側へと、その人の持つ最良かつ最高の性質を引き出して鼓舞し、さらに高めるものに変わった(日本語版、 p.18)」というコヴィーの記述に強い印象を受けた。内側から外側、つまり内面から外面に最高のものを引き出すというのは、人に限らず、組織においてもあり得る話だと思う。人の内面としての心が外面としての行動にどう反映されるかという点で、いろいろ考えさせられる。
・人の内面から出る行動は信頼される。飲食店の鳥貴族を一代で全国チェーンにした創業者の大倉社長は、今も会社は自分一人のものではなく全員のものと言って、身のまわりのことは全部自分で行うそうだ。子息が芸能人ということでも有名だが、そのことを隠しもせず驕りもしない自然体を貫いていて、そうしたことを含めて、周囲から高い信頼を得ている。

・勤め先で議決権行使に関する仕事をしている。そのために多数の企業を評価しているが、個人的な指標として従業員が内発的に行動している会社を評価したいと思っている。多店舗展開するような業種がわかりやすいが、カリスマのワンマン社長がすべてを指示するような会社では、店舗の規模が数百店を超えるとカリスマ社長の意図が末端につながらないことが散見され、1,000店を超えると明らかに浸透していないことがいやでも目に入ってくる。
・企業の経営理念の改訂を手伝っている。店舗の規模の成長、拡大の中で過渡期を迎えている。先ほどの話の通り、顧客優先のこれまでの経営理念が一部の店で店舗運営を後回しにするための言い訳となっている。ただし、経営全体を見渡すと店舗数の拡大局面ながら、むやみに人を増やせない状況にある。そのような中で客サービスを再定義して店舗運営の合理化、整理整頓と直結させたいと思っている。そのために経営の意図の浸透にはさらに工夫が必要と認識している。
・流通の川下といわれる小売りに近いところで、顧客重視ということばが改革の阻害要因になっているというのは意外な感じがする。具体的にはどのようなことが生じているのか。
・一部の店舗で販売スタイルを変えることへの反発がある。表面的には顧客重視の方針維持と言いながら、本音は現状に甘んじたいということのようだ。経営にも反省すべきところがあり、これまでも日々の仕事が、人すなわち従業員を成長させる方向になかったと思っている。
・類似の話であるが、社内で地位に関係なくお互いに言いたいことを言う社風を持った会社がある。風通しが良いといえば、そうなのだが、意見の言いっぱなしという状況が見られるようになった。そうなると発言がどんどん無責任なものとなり、実際の運営にせよそれを背景とした社風にせよ、いろいろと逆目に出ているように感じている。
・「人が良心に従って生きようと努力すれば、誠実でいられるし、心も平安である。ウィリアム・J・H・ベッチャーはそう言っている(日本語版、p.28~p.29)」という箇所に心を引きつけられた。最近、トップのビジョンをフォロワーが自分のものにすることの難しさを感じている。自分は公務員であるが、組織のトップは選挙で選ばれるために、選挙によるトップの交代にともなってビジョンが急に変わることがある。現在のトップは数年前に当選した民間出身の若い人。日常の指示を含めて斬新なものがあると感じているが、自分を含めて長年培ってきた職業観を持つ多くの職員に、まだ腑に落ちないところがある。また「相手を恐れることなく、自分の信念を表現できる勇敢さ(日本語版 p.29)」という言葉には痛みすら感じる。中間管理職の自分が下にいろいろなことを伝えるとき、腑に落ちていないことを見透かされているのではないか、という感覚、人間性を見られているという恐怖感がある。
・多数の従業員が所属するいわゆる大会社に勤務している。企業としてのビジョンがあり、それを下部の組織やメンバーに伝えるときは、その組織ユニットのリーダーは、上位者が示した経営のビジョンや思いをそれぞれの組織現場向けに咀嚼して再構成する必要があると思うが、そのようになっていない。会経営者、つまり自分たちの上位の組織や人がいったことをコピー&ペーストして伝えているケースが多いのが残念。面倒な仕事に従事している部下に、その仕事の意味と意義を自分のことばで示すことが役割だと思う。
・部下をエンフォース(=指示に従わせる)ためのことばを、部下の納得度を高めるように穏やかに語り掛けるように心がけている。しかしながらそうした行動が自分の部下への思いなのだとわかってもらいたいというエゴがあることを自覚している。自分が相手にどう受け止められるか、自分が受け入れられるかという感覚、恐怖心からくる行動で、それ自体がエゴだと感じている。
・いまの意見は自分も管理職として痛感するところがあり、かつとても難しい問題だと思う。また上位者に対する部下の立場からも難しく感じられる。自己犠牲をいとわぬ良心に裏打ちされたことばかどうか。本物の良心を見分けること、外側から一見するだけではわからない。

・議決権行使の仕事は、総会の多い6月に多忙を極める性質がある。正確な仕事を実施することは当然であるが、その中で効率的な仕事の仕方が強く求められてきた。さまざまな効率策が示され、具体的な会社としての指示も多数ある。そうした効率化対策を実施してきたが、なぜか逆に効率が下がり、組織内の不満が高まってきた。部下や周囲と対話を重ねてきたが、事態が改善しない。そこで、部下とミーティングでそれまで示してきた業務プロセスの効率策を全部撤回して、ミスなく期限通りに仕上げこと、その方法を各自に任せることにした。その結果、効率が上がり、当初の目的を達成することができた。善意で寄せられた効率策がマイナスに働き、各自の自由と責任という、少し突き放したような指示の下で効率が上がったことにいろいろ考えさせられている。
・自律性を信託することで効率が上がる。話を聞けばなるほどと思うが、実際にはとても難しい。こうしたリーダーシップが成功する要因を突き詰めたいと思う。