第二期第31回(通算第86回) 東京読書会開催報告
# 2018年3月23日に実施した第二期第30回東京読書会開催報告を併せてご参照下さい。
ロバート・K・グリーンリーフの「サーバントリーダシップ」(金井壽宏監訳、金井真弓訳、英治出版、2008年)の読書会は、最終の第11章「心の旅」の会読に入りました。この章は、これまでの章の会読と異なり、途中で切って、解読を進めるのではなく、第11章全部を会読して参加者討議する会を前回と今回の2回実施しています。続けて参加した方と本章会読初回の方を交えた議論は意義深いものになりました。この章は、グリーンリーフが米国の詩人、ロバート・フロスト(注)の「指示」(原題、Directive)という詩を引用して、グリーンリーフがサーバントリーダーシップの観点から解説を加えたものです。フロストは苦難に満ちた自身の人生を通じて感じた前進する人間の価値を詩に託し、グリーンリーフは、そこからフロストを通じた神の啓示を受けようとしました。グリーンリーフのこの解説文はフロストの死後に書かれたものですが、この詩を巡って二人が熱く語り合ったもののように読めます。(今回の会読範囲 p.493~p.519、この章の最後まで)
(注)ロバート・リー・フロスト(1874.3.26~1963.1.29)。第二期第30回東京読書会開催報告参照。
【会読内容】
・グリーンリーフは、フロストの詩、「指示」に関する彼の読解、解説の小論を本書に再掲するに当たり、「私は晩年のロバート・フロストと知り合えたことを光栄に思う。彼の詩は人間を一人の個人としてとらえる感覚に優れ、私にとって特別な意味を持っている」と書き、フロストとのいくつかのエピソードを交えつつ、懐かしい思い出をつづっています。
・1963年、フロストの死後にグリーンリーフがこの詩「指示」についての読解を書いたことについて、「フロストに与えられた影響を確認する作業であり、私がサーバント・リーダーとして見るようになったものを模索している人々、遅かれ早かれ ―自分の力で― それを手にする人々と分かち合うための作業だった。われわれは何者なのか、われわれはどこへ向かって旅をしているのだろうか、というものだ」と説明しています。
・指示 (原題 Directive) (注)
もはや耐え難いものになった現状のすべてを離れて、/細部が忘れ去られ 単純化した時を遡ってゆくと、/日焼けしたり分解したり、風雨に晒された/墓地の大理石彫刻のように 崩壊した/もう家ではない家が そこにある、/もう町とは言えない町のなかの/もう農場とは言えなくなった農場に。/内心道に迷わしてやろうとしか 思っていないようなある案内人に/指示させるなら、そこを通る路は かつて/
石切り場ででも あったかのように思えようが-/そこの路は、昔の町が覆い隠すようなふりなど とっくに/無くしてしまった 巨大な一枚岩の膝の部分なんだ。/そうしてある書物には その話が載っているが、/鉄の車輪が磨り減らしたあとだけではなく、/岩棚は巨大な氷河という鑿<さく>の造作で/南東から北西に走る栓を露わにして、/それが北極に向かって 足を踏ん張っているんだ。/パンサー山のこちらの斜面に今なお漂うと/いわれるある種の冷気なんぞ 気にしてはならない。/また君は 四十もの小桶から覗く目玉のような/四十もの地下室の中から凝視される/連続的試練をも気に掛けることはない。/ざわざわと葉ずれの音を立てさせる/君に対する森の苛立ちには,/成り上がりものの青臭さのせいだとしておくのだ。/わずか二十年も前には そんな木々はみな何処にあっただろうか。/それはキツツキに悩まされたリンゴの老木を/日陰にしてやったと、大げさに思いすぎている。/この路もかつては誰かの仕事から帰る家路だったわけで、/その男は 君のすぐ前のあたりを歩いていたとか、馬車一杯の穀物を積んで きしむ音を立てながら/通っていくという、威勢のいい唄でも作ったらいい。/この冒険の極まるところは、かつて二村の文化が/混じりあった土地の高まるところだ。/それらの文化はいずれも今は消滅した。/今までに 君が迷ったあげく やっと自分の路を見つけたなら、/自分の後ろに梯子路を引っ張り込んで/私以外には、すべての人に「通行止め」の札を出すことだ。/そうやればもう安心だ、残った一枚の畑など/鞍ずれの傷ほどの大きさもない。/まず ままごと遊びのこどもの家があるんだ。/マツの根元に割れた皿が散らばるが、/それは こどもたちのあそび家のあそび道具。/なんとちっぽけな物が彼らを喜ばせたか、見て涙したまえ。/それからもう家ではなく、そばにライラックの生えた/地下の穴蔵、こね粉のへっこみ穴がしんなり閉じていくようなものにもだ。/こちらはあそび家ではなく 本当の家だったのだ。/君の到達点で、君の運命であるものは/この家の飲み水の小川なんだ。/まだ水源にも近く、泉のような冷たさ。/激流するには ここは高過ぎて、根源的過ぎとる。/(私たちは知っているが、谷川も一たび激流すれば/刺や茨にぼろ屑がひっかかる。)/水べのシーダーの老木の アーチ状の根元の陰に、/私は欠けたゴブレットを 聖杯<グレイル>みたいに隠しておいた。/聖マルコが禁じたとおり、それに相応しくない者が/見つけて救われたりしないように、と呪文をかけて。/(ゴブレットはこどもたちのあそび家から/私がひそかに頂いてきたのだ。)/ここにあるのは君の飲み水で、君の水汲み場、/飲んで混迷を超えて 健全になりたまえ。
(注)この詩の引用については、第二期第30回東京読書会開催報告の注記参照
・この詩の意味について、フロストはグリーンリーフに「何度でも繰り返し読んでみてください。詩の方から訴えかけてきますよ」と語り、フロスト自身によるこの詩の朗読からグリーンリーフは、「(前略)何が重要なことなのか、彼がどんなことを感じているのかがよくわかった」と述べています。
・さらに、グリーンリーフは「この詩を繰り返し読んで、どんなことを思い浮かべるかは人それぞれだ。自分が準備段階にある何かや、受け入れ態勢が整っている何かを思い浮かべたりするのだろう」と書き記し、そこから「気づきは、何か重要で心をかき乱されるようなものが自分とその象徴との間で発達するままに任せ、求めることによってではなく、じっと待つことによって現れてくる」「象徴の力は、意義深い新たな意味の流れをいかに継続できるかによって測られる」「象徴は対峙を生み出す。その対峙の中で象徴に意味を見出すのは、それを見る人なのだ」と彼の考えを展開していきました。
・詩の冒頭、「もはや耐え難いものになった現状のすべてを離れて、」について、グリーンリーフは「現代社会に生き、あるがままに社会と折り合いをつけていくだけでは、自分の成長を妨げる方向へ深入りしていくだろう」と警告しています。この警告はグリーンリーフがリーダーシップの本質を考えるきっかけとなった危機感そのものです
・フロストの詩で「内心道に迷わしてやろうとしか 思っていないようなある案内人にさせるなら」という部分について、グリーンリーフは「われわれはすでに喪失感を味わっている(後略)」として、それが世界的な宗教の伝統が常に立たされてきた立場であり、グリーンリーフが育ってきたキリスト教の世界においても新約聖書に記されたナザレのイエス(イエス・キリスト)の教えに、「われわれが道に迷わねばならないという手がかり(後略)」があると、福音書から数か所を引用して指摘しています。(本書日本語版、p.512~p.516)
・詩の半ばで、「今までに 君が迷ったあげく やっと自分の路を見つけたなら、/自分の後ろに梯子路を引っ張り込んで/私以外には、すべての人に「通行止め」の札を出すことだ。/そうやればもう安心だ、」という箇所があります。この詩における場面転換の場に当たります。グリーンリーフは、「充分に道に迷わなければ、自分自身をみつけることはできない」と述べ、「あなたはこれまでに築いてきた関係を断つ。しかし、その訣別を受け入れる。孤独のはずだが、心が落ち着いていて孤独を感じることはない。しかし、旅はまだ続く」と、人が道を求める課程での重要な心構えを説きました。
・さらに、詩の終盤「水べのシーダーの老木の アーチ状の根元の陰に、/私は欠けたゴブレットを 聖杯<グレイル>みたいに隠しておいた。/聖マルコが禁じたとおり、それに相応しくない者が/見つけて救われたりしないように、と呪文をかけて。」の箇所で、グリーンリーフは、フロストがこの詩に込めたであろう新約聖書の福音書(注)記されたイエスの教えやたとえ話に秘められた意味をくみ取りつつ、人間性が試される試練と精神の成長を述べています。
・この詩を通じて、グリーンリーフは「人間の完全性という尺度では、確信は得られないし、心の平安を得ることもない(中略)不安を超えたところに約束がある」と述べ、「現代人にとって、これはおそらく到達できそうにない道だろう。しかし完全には到達できなくとも、目指すことならともかくできる」と訴えました。
・グリーンリーフは「象徴によって促される喪失が、新たな創造的な行為へ、かけがえのない才能の授与へと通じ(後略)」「喪失と迷いへ向かうこの姿勢の根源にあるものは“信念”だ」として、「心の旅」を望む人々がこの「指示」という詩を伴侶として、旅に出て、旅を続けることを、「希望が見えない時代に、希望に満ちた仮説としてこれをお薦めする」と訴えます。グリーンリーフが生涯をかけて追及したリーダーシップの本質を「私は自分の人生をこの仮説に賭けてみたい」と記してこの小論を終えています。
【参加者による討議】
・やはり、詩の中間にある「今までに 君が迷ったあげく やっと自分の路を見つけたなら、/自分の後ろに梯子路を引っ張り込んで/私以外には、すべての人に「通行止め」の札を出すことだ。」(日本語版、p.497およびp.508~p.509)に強い印象を受ける。退路を断つ、という意味合いと想像すると、今度は、それは何のために、という疑問がわいてくる。梯子路を外すことで、後から人が安易についてこないように、本人も戻れないように、孤高の道を進むことになるのだろう。それがリーダーの道なのかもしれない。日本語版p.508に書かれている「自分の道」だ。
・普通の人は、人生の目的を安逸な幸福をつかむことに置きがちだが、この詩では違うと感じる。真の幸福に向けて、何かに挑戦しようとする強い意志が感じられる。
・そして、なぜ詩なのか。この詩全体に屹立とした美しさを感じる。美こそが人を惹きつける。
・「心の旅」というタイトルが強く心に残っている。自分自身の中に多くの悩みがあり、そのことを日々考えている。そのような思索の中で、なにかのことばに出会うことがある。そのことばを素直に受け入れられるときと受け止められず、不安に陥るときがある。そうした不安もそれを繰り返しながら、やがて自分が納得するときがくる。ことばの面白い力だ。
・自分が勤め先で営業に配属されたとき、どうしようかと困惑したことがある。人との付き合いが重要だが、そこにはハウツーのマニュアルがない世界だった。そんなときに、オグ・マンディーノの「史上最強の商人」(注)という本に出合って、迷いが吹っ切れた。この詩を読みながらその時のことを思い出していた。
(注)オグ・マンディーノ(1923年~1996年)、米国の文筆家、自己啓発書作家。生命保険会社勤務などを経てから文筆業に転じ、セールス支援などの自己啓発書を多数書いた。「史上最強の商人」は、1968年に著した彼の代表作。日本語訳は、現在、角川文庫で入手可能(山川紘矢,山川亜希子訳、2014年)
・詩はことばを文字でつづったものだが、この詩は、決して風景をそのまま描写したものではない。しかしながら、この詩を音読していく中で、まるで映画のように、ことばが伝えようとする情景が浮かんでくる。現世の雑踏や周囲の人々から自分が離れて旅に出る。自分の心が望み、求めるままに進む旅だ。自分が進む道の先にどんな危険と苦労があるかわからず、進む道の途中で孤独を避けて道を戻る誘惑にかられる。戻るか進むかの岐路での決断、それを確固とするために梯子路を外すのだろう。
・大学時代にコーラスをやっていて、多くの合唱曲を歌っていたが、詩に意識を向けることは少なかった。当時は、まだ、人生について深く考えずに歌っていたと思う。その中で谷川俊太郎の詩は学生の心情を表していたと思っている。そのときに様な感じたことを思い出しつつ、フロストの詩を読んで、グリーンリーフの理解と異なるものを受け取った。とても多角的な詩のように思う。
・この詩の美しいフレーズに感銘している。5次元空間(注)からの声という感じがする。自分はJ.S.バッハが作ったマタイ受難曲(注)をカール・リヒターが指揮した録音(注)を愛聴しているが、その演奏で感じるものと同様の勧興を覚える。
(注)1次元=線、2次元=面、3次元=空間、4次元=時空(時間と空間)、5次元は時間軸が無数にあり人間の基本的な身体機能では認知できない世界とされる。並行世界やパラレルワールドとも呼ばれる。
(注)ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685.3.31~1750.07.28):ドイツパロック音楽の巨頭。音楽一家の家系に生まれ、ザクセン(旧東独)で演奏家として活躍するとともに、現代に継がれる多数の教会音楽、宮廷音楽を作曲した。音楽の父ともよばれている。
マタイ受難曲:新約聖書マタイ福音書におけるキリストの受難の物語をもとにした独唱、合唱、管弦楽による音楽。J.S.バッハの最高作品ともいわれるが、彼の死後演奏されることなく、100年後にメンデルスゾーンによる再演で復活した。
(注)カール・リヒター(1926.10.15~1981.02.15)。ドイツのオルガン奏者、チェンバロ奏者、指揮者として活躍。自身が設立したミュンヘン・バッハ・管弦楽団を指揮して1958年に録音したマタイ受難曲は、当時全盛期の世界一流歌手による歌唱を含めて、同曲の最高録音との呼び声が高い。
・多くの詩はその音韻を楽しむことも大切だと思っている。漱石の草枕は詩ではなく小説だが、その冒頭、「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」のたたみかけるリズムと音韻は、読む者にことば以上のものを訴えかけてくる。この詩の翻訳からも多くのメッセージが受け取れるが、音韻で訴えてくることを受け止めるために、原文で読むことが大切だ。
・人間の脳の神秘的な世界に思いを寄せる。現在、AI(注、Artificial Intelligence=人口知能)が世間の話題をさらっているが、AIは人間の脳をとらえきれていない。人間の神経回路は、AIと異なり Stop to Think、止まって考えるということができる。止まって考えることで世界を広げられる。心の余白である。人が詩から多くのことを感じ、学べるのは、心に余白があればこそ、だ。