過去の活動報告

第29回 東京読書会(第二期)

開催日時:
2018年2月23日(金)19:00~21:00
場:
レアリゼアカデミー

第二期第29回(通算第84回) 読書会開催報告

「サーバントリーダーシップ」(ロバート・K・グリーンリーフ著、金井壽宏監訳、金井真弓訳、英治出版、2008年)の第二期東京読書会は、今回、第10章「アメリカと世界のリーダーシップ」全編を会読しました。これは、1976年1月にリーダーシップ開発に関する国際シンポジウムに出席したグリーンリーフが、アメリカ人の傲慢さを指摘されたことに対する回答として行った講演の記録です。グリーンリーフがサーバントリーダーという考え方を打ち立ててから一定の時間がたっていること、そして批判に対する回答という位置づけの講演であることから、彼の分析や主張が端的に述べられている箇所が目立ちます。(今回の会読範囲 p.483からp.491 章の最後まで)

【会読範囲の紹介】
・この小論は、1976年1月に、リーダーシップ開発に関する国際シンポジウムに出席したグリーンリーフがアメリカ人の傲慢さを指摘されたことに対する回答として行った講演の記録です。
・グリーンリーフは、友人からアメリカ人の傲慢さを指摘され、そのことに傷つきつつもそれを認めざるを得ないとしました。彼は、その原因はアメリカが絶大な権力を持っていること、かつては英国が傲慢と思われていたように、歴史上世界に権力を行使した国がそのように批判されてきたことに言及しつつ、アメリカがそれを克服する謙虚な姿勢を失わない状態にはまだ達していないと指摘しました。
・このシンポジウムで「強者が持つ謙虚さ」について学んだグリーンリーフは、謙虚さについて「弱者に学び、弱者のもつ才能を喜んで受け入れる能力によって確かめられる」と定義します。
・この講演の12年前(1964年)にビジネスの世界から身を引いたグリーンリーフは、インドの経営大学に新たな教育課程を設け、インドにとって必要な発展を支援できるようにという要請を受けました。この仕事を引き受けたグリーンリーフは、4年間で4回、インドを訪れましたが、インド社会のトップから受けた高い待遇に、そのような待遇が米国では得られないことから、「これは有頂天にさせられるようなことで、傲慢さが増長する温床」であり、その頃にインドの支援に関わった多数の人物が傲慢な考えに陥る危険があったと述べています。
・グリーンリーフは、インドでの自身の仕事について、今(1976年)に続く教育課程を設置し自身もいろいろと学んだことから、一応の及第点を与えつつ1970年の最後のインド訪問で、インドは独立の父ガンジーが夢見た”村からつくる国家“でも、初代首相のネルーが目指した”理想的な計画による国家”でもない、「世界情勢や今自分たちが置かれている社会状況に合わせた前進」を目指していることを感じました。
・このことにグリーンリーフは、「新しい状況下にあるインドで物事を成し遂げるための新たなコンセプト」「インドの人々にとって有益な新たな組織」「彼らがアドバイザーとして選ぶ人間を育成する(こと)」の必要性を痛感しましたが、それが極めて困難であり、「(インドを支援する)財団はそうしたサービスを提供する機会を、とうの昔に失っていた(後略)」と嘆きました。
・グリーンリーフは、1971年にこの財団を去るに当たり、その報告で「人を指導する立場にある人間が、どうすれば適切に人を指導できるのか、またその手のことに熱心に取り組むアメリカ人が、世界中の人々の目に傲慢に映る理由」を書き残すことを望みました。
・グリーンリーフがこの仕事で初めてインドに赴いた時は、初代首相ジャワハルラール・ネルーがまだ現役でした。グリーンリーフはオクスフォード大学で教育を受けたネルーが「見た目はヨーロッパ人」であり「インドの宗教や文化を嫌い、技術支援を受け入れ(中略)、インドがいち早く先進(西欧化)国家の仲間入りが果たせるように」している人物であったと評しています。ネルーは自分がガンジーと思想を異にしており、「(ガンジー)の見据えるものが私には今ひとつわからない」と述べていますが、グリーンリーフは、「多くの民衆に自分たちの善良な社会という夢を提示したガンジーと、独立後の最初の政府を率いてまったく異なる方向へ民衆を導いたネルー」の「将来への見通しの決定的な衝突」がグリーンリーフの困惑の原因であると感じていました。
・この状況を踏まえて、前述の適切な指導のありかたについて、グリーンリーフは「(前略)長い期間、ある国家が支援の提供者で、その相手国が支援の受け手であり続けるという関係には、信頼に足る根拠があるように思えない」「これに加え、インドの人々から学ぶことはいくらでもある。われわれが彼らに教えたことと変わらない」「一方的に支援を提供していればそれでいい、などと考えるのは思い上がりにもほどがある。インドの人々のためになる存在であり続けたいのなら、彼らの学習に貢献したように、われわれの人材をもっと有効活用して、インドの人々からも学ぶべきだ」と報告書に記しました。
・またグリーンリーフは、援助主体者の財団職員の仕事の難しさに言及します。多くの申請を受理しつつ、それが補助金支給にふさわしいかどうかの判断の難しさ、多数の申請を却下しなければならないつらさが重圧となります。さらに補助金を申請する人が、かなりの地位や名声がある人でも財団に「すり寄って」くることで、財団職員が自分を全知全能と誤認してしまう危険にさらされていると、警告しました。
・さらに、このことについて、神学者でもあるダンフォース財団のメリモン・カニンガム博士の著書「民間資金と公的サービス」(注)を引用しつつ、彼の説明を裏付けていきます。カニンガム博士は、「提供という行為は、モラルに反する危険性を秘めている」と述べ、提供という行為を美徳と思い込むことにより不道徳な考えが付随する、(他者の)力になりたいと思うことと、支援者になりたいという欲望は異なる、と論じます。
(注)ダンフォース財団、メリモン・カニンガム博士、民間資金と公的サービスについて、
第6章「財団におけるサーバント・リーダーシップ」の中の「財団のトラスティ」に
同じ個所の引用でグリーンリーフが自分の意見を述べている(日本語版、p.334~)
・カニンガム博士は「支援者として名を売りたい、あれこれと指図したい、指示したい、父親風を吹かせたい、人を巧みに操りたい」と支援者が持ちがちな不道徳を挙げて、財団に危機感の自覚を促していました。これを受けてグリーンリーフは、アメリカの対外支援においては、前記のことに対する自覚のみでは不十分であり、「心を開き、相手が何者であろうと、その人を受け入れる準備ができていないかぎり、安全に何かを提供できない」と「傲慢さと謙虚さの間にある、中道の道」を進むことの難しさを主張しました。
・グリーンリーフは、「(アメリカのような)絶大な影響力を持った国家におけるリーダーシップの重要な要素は、それが個人であれ、団体であれ、国家であれ、支援する側にいる者を動かす能力でしょう」とこの講演の最後に述べています。それは、「援助の手を差し伸べることや、与えられたものを喜んで受け入れること、そして、条件に恵まれないものの費用を負担するように」支援側を動かすことであり、そのことが「権力のある者にとっては、少なくともそれが救いの道です」と訴えました。
・この講演の結語は次の通りです。「支援することを通じて支援してもらうこと―――なかなか容易ではありません」 グリーンリーフの心の中には、彼が一貫して説く、他を導くものは、まず他に奉仕するべきであることの実行の難しさを痛感しながらのことばだったかと思われます。

【参加者による討議】
・さまざまな支援を提供する側が傲慢な姿勢となってしまうという指摘は本当に厳しい。純粋な奉仕の気持ちが上位から与えるという姿勢に変わる、その見極め方の問題でもあろう。自分の職場にコーチングを学んだ後輩がいるが、「コーチしてやる」という態度が裏に見えることがある。コーチングの世界ですらそのようになるのか、と残念な思いがする。
・奉仕や支援を受ける側は、奉仕してくれる側を「見上げる」ことになる。そうなれば対照的に奉仕する側は、上から見ることになる。その位置関係は変えられないが、その関係が固定化することを警戒するべきである。奉仕や支援をする側も、奉仕をお願いされることに気持ち悪さを保つ必要がある。
・関係の固定化にはさまざまな現れ方がある。たとえば、「上司が言っているから」といって指示を無批判に受け入れたり、周囲に説明や説得するのも関係の固定化の一つの現象。上役は部下が上司である自分のことばを無条件に受け入れるような様子が見えたら、自分の影響力を誇るのではなく、むしろ戒めとして認識する必要がある。部下も上司のことばなどを無批判に受け入れることは、「考えない」という楽さ、心地よさを享受する危険な状態だと思った方が良い。
・この章では、国際貢献の場でアメリカが傲慢だと批判されたことを題材にしているが、考えてみれば、与える側のアメリカ人は、本人が意識せずとも生まれたときアメリカ人であり、与えられる側の感情や思い、論理を実感としては感じにくいと思う。同じように企業の創業二世なども、創業二世でない自分を実感できないと思うが、そうした人たちは世の中がどう見えるのだろう。
・発展途上国の日本人補習校(注)で生徒を受け持った経験があるが、現地の企業や支援団体の日本人駐在者には、メイドと運転手がつく生活だった。最初は遠慮がちながらしばらく経つと、生まれた時からメイドと運転手がいたかのような感じになる。運転手のつかない自分には違和感があった。
(注)海外で日本人子女の数が少ない地区や、現地校に通学する日本人子弟を対象として、
週末などに国語などの教科を教える。
・米国スタンフォード大学が実施した監獄実験(注)のように、予め実験で、単にお芝居として割り当てられた役と理論的にはわかっていても、その役柄に自己投影してしまうことがある。芝居の俳優などにもあるようだ。
(注)1971年にスタンフォード大学で実施された心理学実験。刑務所での看守と囚人の役割を
与えられた被験者が役割に合わせた行動を取ることを証明することを目的に実施された。
心理学者で実験者のジンバルドーも状況に飲み込まれるなど危険な状態になり、
実験は6日間で中止された。
・最初から上下関係の上の位置にいて無自覚にそうなってしまう人、あるきっかけでできた上下関係が常態化して無意識に上から目線を続けてしまう人、それぞれに相手目線で考える自覚を促す対策や教育が必要だ。
・現在、個人経営者として法人の代表を務めている。代表となると組織の一員だったころと異なり、周囲から怒られるという経験が極端に減ってくる。そのことに甘んじないように、自分の趣味について、きちんとした先生について、時に厳しく指導してもらってバランスをとっている。
・新卒の若い社会人が何かをできないときに、自分ができるからといって能力がないと決めつけるのではなく、教わる機会がなかったのか、とかコツをつかんでいないのではないか、と視点を変えるようにしている。そうすると、それが自分も通ってきた道だとわかることが多い。その意味で、メンターに奉仕するという意識が絶対に必要だ。

・会社人生の中で、「人徳の貯金」は、周囲から「ありがとう」ということばをどれだけ言ってもらえるかによって残高が決まると思っている。世の中にはさまざまなことの不公平を嘆く声が多いが、人生のトータルでは、割り勘というか、だれもが同じような結果になると信じている。時間をかければそれぞれがバランスするという感覚は、国家という単位でも忘れてはいけない。
・先祖代々の裕福な家庭に育った友人がいるのだが、その友人が東京に出てきたときに、親が家を用意してくれたのだが、それ以外の金銭については大変に厳しく律していて、親からは子供に与えた家自体も「お前のものではない」と自覚を促されているそうだ。
・経験の幅が狭いと、今、目の前で起きていることや周辺の状況が当然のことになってしまう。親が金持ちで何でも買ってもらえるというのもその一例。その友人の親はそこを律しているのだろう。自己肯定感は生きていく上でとても重要な感覚であるが、それが強いと自分の生来の環境を当たり前と思ってしまいがちだ。
・アメリカが西側諸国の中で世界一強だった第二次世界大戦後の半世紀は、国をあげての自己肯定感があったと思われる。多くの国で自国に根差す価値観との対立でアメリカを傲慢と感じていただろうと推察する。
・自分が知らないことがあるということを自覚することは重要。若いころに「汝(なんじ)、無知の知を知れ」という言葉に出会って、強い影響を受けている。だが、自然に無知の知を知るのは極めて困難。教育が必要不可欠だ。

・コーチングの本質はコーチがコーチングを受ける相手に、視点を提供することにある。コーチングすること、コーチングすることで相手が救われたという快感を得ることを目的にすると、本書(日本語版)のp.490冒頭にあるように「(前略)支援者になりたいと思うことは、助けたいという気持ちをどのようにも歪曲しかねない(後略)」事態となってしまう。
・コーチングにはNLP(注)などの技法を取り入れて精緻化してきているが、コーチングを受ける人のゴールをコーチ自身が設定してしまう間違いを犯しやすい。支援される側の思いを丁寧に掘り起こしていくことが必要。アメリカもインドに寄り添って、インドの人々や国が本当に求めるものを見つけ出していけば、このような不幸な関係にはならなかっただろう。
(注)Neuro-Linguistic Programming(神経言語プログラミング)。
言語学者のジョン・グリンダーとリチャード・バンドラーによって、
1970年代半ばごろから提唱された、コミュニケーションや能力開発、心理療法の技法。
・医師、看護士、職員、そして患者やその家族。病院の中では医師が圧倒的に強い立場にある。かつては医師が患者を含めて病院内のすべてを支配していたが、現代は医師に患者目線での物事を見ることが必要とされている。病気そのものに対処するのではなく、病気を抱えた患者の治癒への希望に向けて環境を整えることを求められているとも言える。
・支援のゴールは、支援が不要になること。そのゴールにたどり着く方法論に普遍性はなく、個々の状況や条件で変わってくるが、支援不要ということがゴールであることに変わりはない。

・自分の周囲、とくに若い人に、自分が指示したことや示したやり方での仕事に、外部の人から「それは違う」という意味のことを言われたら、すぐに相談してほしいと言っている。その意図は、外部の意見と対立するためではなく、ときに第三者から教わることが勉強になることがあるからだ。そこに注意していないと、部下や後進の状況を放置しがちになる。
・部下へ指示や意見を適正に伝える、ここでは相手がよく咀嚼(そしゃく)して理解できるようにという意味なのだが、そのように自己をトレーニングしていくことが必要だと思う。
・部下からの意見や質問に、上司はつい、「それで、お前はどうするのだ」とか「どうしたいのか」とカウンターしがちである。この「どう」を「何」に置き換えて、「この状況で君なら何ができるか」という問いかけにすることで、その後の展開が変わってくる。
・わが国では、日本電産などが代表的だが、大企業でも細かい仕事まで指示があるマイクロマネジメントを推進する会社がある。そうした企業でのリーダーシップ、とくにサーバントとしてのリーダーシップがどうなっているのか、関心がある。
・本書の序文を書いたスティーブン・コヴィーが晩年、代表著書「7つの習慣」をバージョンアップして「8つの習慣」を刊行している。その中で、上司の心得として部下を揶揄(やゆ)しないこと、かつ迎合しないこと、を挙げている。このポイントを押さえることがマネジメントの要諦(ようてい)ではないだろうか。上から目線でも下から目線でもない、ちょうどよい関係を保つこと。今日会読した章では、それが国という単位にも適用されることを知った。
・他人、ことに部下に上手に伝えることは難しい。機会を確実にとらえること、その機会を逃さないある種の「瞬発力」も必要だと感じた。