コヴィーは、サーバントリーダーシップとは時代を導く、まさに現代において求められる規範であると定義します。
道徳的権限をサーバントリーダーシップの別名であるとして、その特徴を4つ挙げています。
1.道徳的権限または良心の本質は、犠牲である。
自分自身や自分のエゴを犠牲にしてでも、より高い目的や大義、原理を目指すこと。
身体[body]、 良心[mind]、敬愛[heart]、精神[spirit]の四つの側面にいろいろな形で現れる。
2.良心によって、われわれは身を捧げるに足る大義の一部になろうという気にさせられる。
ヴィクトール・フランクル教授はナチスの収容所で、「私に必要なものは何だろう」という問いかけを「私が必要とされるものは何だろう」に改めたことで世界観が変わった。
このように良心の声から人生の答えを得ることができる。
3.目的と手段を切り離せないと言うことが、良心からわかる。
目的と手段の両方とも大事であり、分けて考えられないということを良心が教えてくれる。
良心は「目的が手段を正当化する」というエゴを認めない。
4.良心によって、人と人が結びつく世界へ導かれる。
良心のおかげで、われわれは独立した状態から、お互いに頼り合う状態へと変化する。
良心は、情熱を、互いへの情熱、すなわち思いやりにも変えてくれる。
良心に従って生きることで誠実でいられ、心も平安である。
コヴィーはさらに、道徳的権限を「道徳的性質+原理+犠牲」と定義して、犠牲こそが道徳的権限の本質であると主張します。
「道徳的=犠牲」と「権限」の相反することばを合わせて新しいことばを作ることを撞着(どうちゃく)語法と呼びます。
サーバントリーダーも撞着語法によることばの一つです。
コヴィーは「道徳的支配はサーバントであること(中略)によって達成され」るとして、グリーンリーフの「彼らが自らの意志で応じるのは、サーバントであると証明され、信頼されていることを根拠に、リーダーとして選ばれた人に対してだけだろう」ということばを引用しつつ、「真に優れた組織のまさにトップの人間はサーバント・リーダーだ。」と断言しています。
コヴィーはサーバントリーダーシップが現代アメリカ、そして世界中の心の傷を癒やせると期待を寄せ、サーバントリーダーシップに満ちあふれた世界を夢見つつ、本書の再版を進めたグリーンリーフ・サーバントリーダーシップ・センターへの謝辞と祝辞で寄稿を終えます。
コヴィーの「前書きに代えて」の後半を読み終えて、参加者の議論が始まりました。
・コヴィーは良心(道徳的権限)の本質は犠牲である、と言っている。
日本語の語感の問題ではあるが、犠牲ということばに非主体的に被った被害、厄災という感じを抱く人も多いだろう。
この点をどのように補足していけば良いだろうか。
・まさに主体性の有無が問題になるところだろう。
物事に取り組むことに対する矜持(プライド)の有無と言い換えても良い。
・ある行為に対する周囲の評価と本人の評価の評価が分かれることがある。
犠牲的行為においてはさらに顕著である。
卑近な例であるが、チーム・スポーツの現場では「与えられたポジションを全うできて一流、そのポジションでチームのための犠牲的プレーを楽しめるのであれば超一流」と言わるが、一脈通じるものがある。
・キリスト教では自分の能力は神様から与えられたものと考える。
犠牲や奉仕は「自分を削って他者に渡す」のではなく、「自分が神様に与えられたものを神様に返す」のだと考える。
人類の真の苦しみは全てイエスが背負い、人が奉仕や犠牲で苦しむことはない。
・行動を視座の高さや時間軸を含む尺度で評価することも重要だと思う。
目的や目標に対する視座を上げて、長期的な視野に立って、全体最適となるような行動の選択を行う。
その行動によって生じる犠牲については、自分の視座を上げて長期の視野に立つことで、自分に被害をもたらす厄災という感覚から自分が掲げる目的の達成過程で起きたできごとに過ぎない、という具合に変化してくる。
・信託業務に携わっているが、これには長期的視野が欠かせない。
フィデューシャリー・デューティーと称して、目先のことにとらわれず長期的に最適な選択となることが求められている。
企業である以上、短期の利益を無視できないのだが、その中でのバランス感覚に注意しながら、常時、市場と対峙していく。
・家族や職場があって忙しい中でも地域社会での活動を続けてきた。
かなり犠牲を払っていると同情されたこともあるが、子供の希望があって
始めたことであり、さまざまな苦労よりも実現した喜びが大きい。
自分から削られてしまったものの上に、より大きなものが生まれている。
全員が楽しい気持ちになってくれることが自分にとっても最も楽しい。
一方で、自分の職場はかなり忙しく、被害者的な意識を抱いている人もいる。
こうした人たちの気持ちを少しでも変えさせることができれば、と望んでいる。
・コヴィーはヴィクトール・フランクルを引用しているが、フランクルは
その主著の「夜と霧」(注)の中で、自分が生きることの意味を強く意識することの重要性を説いている。
未来を見通し、その中での自らの姿を想像することから自分が生きることの意味を見いだせる。
(注)ヴィクトール・フランクルの原著名は日本語に訳すと「ある心理学者の強制収容所の体験記録」であり、1947年に刊行された。
日本語版の「夜と霧」は霜山徳爾役が1954年に、原著改訂版に伴う改訂版が池田香代子訳で2002年に、みすず書房から発刊され、現在も刊行されている。
・人はどうしても目の前のことに心を奪われ、短絡的になりがちだ。
未来の自分を想像して、生きる意味、社会における自分のミッションを自覚することは考える以上に難しい。
コーチングの神髄は自分への問いかけを変化させることにある。
すなわち自分が外から何を得て何を失うのか、という認識から自分の内面にあるものを整理して、自分が外部に対して何をしていくかと整理させることにある。
・前職で会社の利益と個人の成績を強く問われる企業に勤めた。
会社が指定した商品を顧客に売らねばならないが、自分にはその商品が顧客に最適と思えないことが多く、自分の考えと会社方針の折り合いをどうつけるか悩んだ。
企業の利益という目的とその手段の選択という問題だと思う。
いろいろと考える中で、顧客利益を最優先にすることを自分の信条とすることで、悩むことがなくなってきた。
・目的と手段の正しさを両立させるという課題は、企業活動の中では確かに難しい。
目的のために好ましくない手段をとることにやむを得ず妥協する、ということも数多くあるだろう。
小さな妥協がやがて大規模な目的と手段の不一致に対する不感症になりかねない。
それを回避するためにも日常活動、たとえば家族関係の中で、目的と手段を一致させるように誠実な言動に努めることが一つの方法かと思う。
・長い伝統を誇る日本企業は単に儲けようということではなく、その企業の公共性や公共性を意識した存立の理念を常に意識していた。
その結果、数百年という歴史を持つ企業も生まれてきている。
純粋な企業活動とは異なるかもしれないが、京都の老舗料亭では時代の流れ中で変えてよいものと変えてはいけないものをきちんと区分している。
せわしない周囲の動きに対して旧套墨守(きゅうとうぼくしゅ)でも付和雷同でもなく、100年ぐらいの単位で変化というものを自分の中でとらえている。
・企業が利益を上げて黒字決算することは、その企業の存在価値の証明であり必須条件である。
問題は、価値測定の尺度の一つでしかない利益とかお金が別の何か特別な意味を持つようになり、それを得る手段の正当性や倫理性を見失うこと。
頻発する企業不祥事を見ても、周囲からは、なぜこんなことを、と思わざるを得ないことが多い。
・不正の発生原因は究極、品格と美意識の欠如に遡る。品格と美意識は個人に帰属するものであり、企業組織にはそれらが投影されるものと考えている。
個人が品格や美意識の習得に励み、また組織が個人に対して適切な規律を
課すことによって、組織が品格と美意識を持つように映り、正義が実現する。
・コヴィーが引用したジョアン・C・ジョーンズのエピソードが心にしみる。
大学の試験で「学校を清掃してくれる女性のファースト・ネームは?」
という設問があり、これを出題した教授から「これから先、仕事の上で君たちはたくさんの人に出会うだろう。その誰もが重要なんだ。その人たちに注意を払い、気を配ってほしい。にっこり笑いかけたり、やあ、と声をかけたりするだけでもいいんだ。」と教え諭されたというものだ(本書p.28)。
自分の中でも志を高く、腰は低く、視野は広く、を心がけていきたい。
スティーブン・R・コヴィーは、今から3年前の2012年7月16日、80歳を目前にその人生を終えました。
グリーンリーフの死後22年、この寄稿から10年後になります。
リーダーシップ開発に生涯を捧げたグリーンリーフとコヴィー、二人は天国で何を語り合っているのでしょうか。
さて、約5年前に始まった「サーバントリーダーシップ」読書会は、今回をもって第一期を終了致します。
長年にわたる参加者の皆さんと関係者の数多くの協力によって、終着点に漕ぎつけました。
ここに厚く御礼申し上げます。
引き続き第二期の読書会を開催致します。
次回、第二期第1回の読書会は、10月23日(金) 19:00~21:00にレアリゼアカデミーで開催予定です。
再度の、そして新たな船出に、多くの方に同道いただけることを期待しています。