「アフリカ人の友人に言われたことがあります。アメリカ人は傲慢だと。傷つく言葉です-しかし、そう非難されるのも分からなくはありません。」と聴衆にとって、おそらく相当に重いと思われる言葉で講演は、始まりました。
「私が思うに、アメリカ人の傲慢さはその絶大な権力という事実に起因するのでしょう」と話を続けて、「文明はまだ発展の途上」であるり「強力でありながら謙虚な姿勢を失わない状態には達していない(後略)」と問題提起していきます。
「今回の会合で、マルタ共和国のベンジャミン・トナ神父から、強者が持つ謙虚さ」を学んだグリーンリーフは、この強者が持つ謙虚さを「弱者に学び、弱者の持つ才能を喜んで受け入れる能力によって確かめられる」と説きました。
このことを踏まえて、グリーンリーフは、講演の10数年前のインドでの体験を語ります。
1947年のインド独立後に英国の学校をモデルにした経営大学の方針は、インド社会になじむことができず、そのことから米国のある財団は技術支援と多額の資金提供の要求を受けました。
グリーンリーフはその学校にインド発展のための新たな教育課程を設ける支援を求められたのです。
グリーンリーフは1960年代半ばに乞われてその財団のスタッフとなり、訪問したインドでは専門家として高い待遇を受けることで、自身が傲慢になる危うさを感じつつも、的確な仕事によって新しい教育課程の制定を行いました。
1970年、グリーンリーフは彼の最後のインド訪問で、同国が独自の価値観と方法で国を発展させようとすることを発見し、その方法に対するアドバーザーの必要を感じつつも、そのことに気がつくのが遅かった、と悟りました。
ガンジーとネルー、インドの独立と独立インドの初期に国を支えた二人も、それぞれが描いたインドの未来像は異なりました。
そのことも一因となって、インドへの支援のあり方について、正しい方向を見いだせなかったのです。
アメリカのインドへの長年にわたる支援に対して、グリーンリーフは「たまたま資金があるからといって、一方的に支援を提供していればそれでいい、などと考えるのは思い上がりにもほどがある。」「彼らの学習に貢献したように、われわれの人材をもっと有効活用して、インドの人々からも学ぶべきだ。」と自らの報告書に書きました。
彼はメリモン・カニンガム博士の「提供という行為は、モラルに反する危険性を秘めている」と彼の報告書に記載しています。
メリモン・カニンガム教授の「提供という行為は、モラルに反する危険性を占めている」という警句を引きつつ「提供という行為の危険性は、行為者がそれを美徳だと思い込むこと、つまりその仕事が美徳だと思い込むことにあり、これには不道徳な考え方も幾つか付随する。比較的単純な動機から力になりたいと思うことと、支援者になりたいという欲望は似て非なるものである。」「支援者として名を売りたい、あれこれと指図したい、支持したい、父親風を吹かせたい、人を巧みに操りたいと考えてしまう」と訴えます。
アメリカは大規模な支援を背景に影響力が強い国であることを自覚すべきとしながら、「心を開き、相手が何者であろうと、その人の資質を受け入れる準備ができていない限り、安全に何かを提供できない」として、支援を受ける者が謙虚な気持ちを抱くことの難しさと、支援するものが簡単に傲慢担ってしまうことの危険性を説きます。
「アメリカという(中略)、絶大な影響力を持った国家におけるリーダーシップの重要な要素は、(中略)、支援する側にいるものを動かす能力で(中略)援助の手を差し伸べることや、与えられたものを喜んで受け入れること、そして、条件に恵まれない者の費用を負担」することとして、この公園を次の言葉で締めくくっています。
「現代社会においては、とくに権力のある者にとっては、少なくともそれが救いの道です。支援することを通じて支援してもらうこと?なかなか容易な道ではありません」
講演録を一気に会読して、参加者の議論が始まりました。
・本文中に使徒言行録をはじめとして聖書の引用がある。その教えや
「覆面のサンタクロース」と呼ばれたラリー・スチュアート(注)の
行動などからも、「謙遜」が到達点なのだと実感した。
本書(金井真弓訳)では「謙虚」となっているが、虚しいという言葉が使われる謙虚よりも、譲るという意味の遜という文字を使った謙遜がじっくりくる。
全てのものは神様からの預かり物であり、これを神様に返すということ。
私心をもたずに相手を敬う気持ちがあることが大切だ。
(注)米国の慈善活動家(1948-2007)、生涯の匿名での寄付金が130万ドル(現在の為替で、約1.5億円)
・受け取る側の謙虚な気持ちも重要。提供者も受け手も中道の道が求められるが、なかなか実現しない。
現代の中東やアフリカでの米国を中心とする西側諸国の支援は、
逆に反感を買ってしまい、昨日の味方は今日の敵、今日の味方は明日の敵、となっている感がある。
自らの誤りを認めることができない弊害があるように思う。
・自分は、現在、個人を支援する仕事に従事している。
周囲を見渡すと、相談のテーブルを挟んで、支援する側は傲慢になりがち、支援を受ける側は支援慣れして自立のために与えられた資金を無駄遣いしてスポイルされている、と感じている。
・「自立と共生」が求められる社会に、意図と異なり「甘えと依存」が
充満してしまっている。
「依存」から「自立」に向けて何が必要になってくるのか。支援を受ける側の姿勢も厳しく問われそうだ。
・寄付について、日本では「与える/与えられる」という一方的な関係に見られがちであるが、 欧米では、寄付を求める側が寄付する側に的確に働きかけて「ハートを射抜く」ことが必要、という双方向の関係の中で行われている。
・カトリック系児童介護施設で、園長が「入園している被虐待児に親の育児放棄やネグレクトにより、乳幼児期に親に十分に甘えられず、依存できなかったことが心の傷となっている子供が多い。
やみくもに自立を求めず、まず職員に甘えることを許容するように」と
指示した話を聞いた。
自立が最善と思っていた職員は、少なからず驚いたという。
・社会の中における個人には、自分に対する適度の「自信」と
「安心、安全の場」が存在することが健全な活動の源泉になる。
国家にもあてはまるのかもしれない。
・その意味では、支援者が支援することに満足してしまい、「支援を受ける側がどの段階にあるか」ということを支援者が考慮しないことに問題がありそうだ。
・本文中に第二次大戦後にインドに設立された経営大学院がうまく機能しないという話が出てきた。
自立的運営に行き詰まるという話に、自分が関わる仕事でも後進に
マニュアルは与えたが、後進が自分で考える習慣が身につける機会を
与えていなかった、という反省がある。
第二次大戦後のインドで、ネルーとガンジーの政治的対立をはじめとして
多くの社会的な動きや要素がある中で、ただ漫然と支援を続けていたことに問題がありそうだ。
・自立のきっかけを与えるための短期間の支援であれば、良かったように思う。
・聖書を読むときも同様であるが、その時代の目で物事を見ることが重要だ。
講演が行われたのは1976年、同時のアメリカの世界における影響力を
念頭に置いて、この章のタイトルでもある「アメリカと世界のリーダーシップ」を考えていかないといけない。
・サーバントリーダーシップは、世間が一般に理解していることを倒立させた概念であると思う。
従来の考え方であれば、リーダーシップとは支援される者を動かすこと、
サーバントリーダーシップは支援するものを動かすもの。
・さらに周囲を「意識させずに自然に動かす」のも重要だ。
「解答」は相手の中にありそれを引き出していく。
ものごとを上下関係の立ち位置で見ていては、解答を引き出せない。
比較的短く、読みやすそうに思えましたが、その内容を読み解くのにそれぞれ悪戦苦闘し、議論も活発に行われた章でした。
次はいよいよ本書の最終章である第11章「心の旅」に入ります。
次回の読書会は4月24日(金) 19:00~21:00 レアリゼアカデミーで開催予定です。