過去の活動報告

【開催報告】第47回 東京読書会

開催日時:
2015年1月23日(金)19:00~21:00
場:
レアリゼアカデミー


グリーンリーフは、米国の短編作家ジェームズ・サーバー(1894-1961)の「現代の寓話」(邦訳なし)から庭に一角獣を見たという夫婦の話を引用して、演説を始めました。
短編の寓話で聴衆を引きつけておいて、おもむろに「この寓話が伝える真意とイメージを交えながら「官僚社会における責任」という、非常に扱いにくいテーマについてお話ししたい〈後略〉」と本論に切り込んでいきます。
グリーンリーフは、責任という言葉を一旦は「社会的慣習に則った期待や因習的道徳に従うこと〈後略〉」と一般常識の定義を示しますが、すぐに、この演説における意味を聴衆に与えました。
「責任とは、自身が不安を抱えることから生まれるもの(である)〈後略〉」
そして、「不安を抱えることで内面が成長し、精神に平穏がもたらされ〈中略〉「私は自由だ」と心から言う(ことができる。) 外見と内面の成長は、〈中略〉責任感のある人間はその両方を備えてい(る)」と大学生が中心の聴衆に熱く語りました。
グリーンリーフは学生達に「居心地のいい、自分にぴったりの小さな落ち着き場所」ではなく、自らが動く有意義な世界に進むようにと訴え、聴衆である1966年当時の学生は自ら動く機会に恵まれており、グリーンリーフの世代が大学生であった1920年代半ばの学生よりも自覚をもっていることで、自分の人生を有意義にすることができる、と激励しています。
講演録を読みながらの参加者意見交換が始まりました。

・年を取ってくると自分にも若く必死になっていた時代があることを痛感する。
身の回りで起きていることの大部分は、たいしたことではなかったが。
一方で、最近、これからの日本を背負う若い人が元気を失っているように見える。
この講演はそういう人たちへのエールとしても心に入ってきた。
・寓話は「つかみ」の話としても面白い。肉体の目に見えずとも心の目に見えたものに真実がある。
肉体の目に見えるものは、個人のレベルで見えているに過ぎず、目に見える成功は個人レベルの成功に他ならない。
見えないエネルギーに引かれて全体のエネルギーの源と繋がったときに心の目が開かれる。
・自分が関わったあるツアーに全盲の方が参加されたことがある。
しかしながらその全盲の方が参加者の中で周囲の状況を一番よく把握されていた。
なまじ肉体の目が見えることが、何かを邪魔するのではないだろうか。
・「ダイアローグ・イン・ザ・ダーク」を体験したことがある。
参加者の視覚を使えない状態にして、いわば暗闇の中でさまざまな行動をする体験イベントであるが、これを経験してみて、見えることの安心感とその安心感に浸ったまま、多くのものを正視していないことを自覚した。
・マスコミやインターネットなどの玉石混交の雑多な情報は、それらがすべて見えてしまうために、かえって真実を掴めないことがある。心の目を開くということばに強く惹かれる。
・心の目とは自分の内側に神経を研ぎ澄まし思考を止めることで、心の鎖、肉体の鎖を断ち切ることで一体感覚で得られるものである。
・グリーンリーフが家族の中で「一角獣はいるかい」と問いかけているというエピソードは、まさに心の目で新しいものを見つけることができたか、という問いかけなのだろう。
・寓話の中で妻は夫の話を聞かず、かつ夫の嫌いな言葉を夫が起きたときに発している。
自分が正しいと思い込み、その思い込みで行動しているという面がる。
そこに「傾聴」が存在していない。
・お互いの話を聞いていないというのは家庭の中の家族関係でありがちな話。
相手の話を聞かず、自分のことばに責任を取らない。
家庭内での会話の状況で家族の関係を問うている寓話のように思う。

グリーンリーフの講演は、「(若い人たちが)自分の人生を見いだすために、「官僚主義的社会」と私が呼ぶことにした社会と、みなさんはどう関わっていくのでしょうか。どうすれば、官僚主義的社会で責任感を持って生きていけるのでしょうか。」という問いかけにつながります。
「官僚機構には〈中略〉杓子定規で形式主義的(で)、<組織>化されているすべてのものをダメにする〈後略〉。あらゆる組織が官僚主義になる〈中略〉。(わたしたちはその)弊害については見て見ぬ振りをしがち」と厳しく批判する中で、ひとつの解決事例として、第二バチカン公会議を挙げています。
第二バチカン公会議は、カトリックの最高権威である教皇ヨハネ23世が1962年に招集した公会議で、世界中から参加者を募り、東方教会(ギリシャ正教)を皮切りにキリスト教の他宗派、他の宗教との関係を対立から対話に変え、古い因習の要素が残っていたカトリックの典礼を刷新するなど、カトリックの近代化に貢献した会議です。
20世紀に入って何人かの教皇(ローマ法皇)が公会議の開催を検討していましたが、会議がまとまらないことを懸念した反対意見が多く、刷新の機会を逸したカトリック教会は、ただ古いだけの伝統の中に衰退の道を進むにと思われていました。
そこに単独で風穴を開けたのが、80歳を過ぎてから教皇となったヨハネ23世でした。
グリーンリーフは80歳を過ぎて積極的な活動を続けるヨハネ23世の若き日の蓄積に言及し、そのような精神の輝きを求めて「周囲の同僚や知り合いの若者たちに交じって、自分自身を見つめ直して下さい」と求めています。
そして社会が官僚主義化することは、ある程度必然との理解の上で「実際に行動に移す」ことの重要性を説きつつ、そこに向かう「みなさんの覚悟が見えてこない」、「今からでも自身の生き方を開拓する準備に取り掛からねばなりません」「四十歳になって権力と影響力のある地位に就いてから、意欲が買われ、実力が認められて、適切な生き方が確立するわけではないのです」と若者に檄を飛ばして激励しています。
そして「私は長年にわたり、実績のある、意欲にあふれた社会人を応援してきました。彼らは希望を与えてくれる自分たちの生き方を再構築したかったのです。最も必要とされるときに、それが手に入るように」と先達の志を受け継ぐことを求めました。
グリーンリーフの熱意に煽られるように、参加者の議論も熱を帯びます。

・まず、官僚制そのものがものごとの決定や推進を全てルールに則り、公平かつ迅速に処理する仕組みであるというプラス面を持つことを確認しておきたい。
その上で「官僚的」「官僚主義」といったことが停滞的な意味と動議になって批判されることについて吟味していきたい。
マックス・ウェーバー(1864-1920)は官僚制の良い面に目を向けており、社会学者のロバート・キング・マートン(1910-2003)は否定的に捉えている。
・官僚主義ということばに、バランスを考慮したものごとの進め方、という意味を感じ、そこに居心地の良さや安全、安定を感じる人も多くいるだろう。
若い人たちにもそうした世界に魅了されて安住し、その後、埋もれていってしまうということも多い。
・行き過ぎた成果主義の結果として、また組織の行き着く先として、悪しき官僚主義がはびこることが多いように思う。
・組織が安定的になる一方で、時代が次々と変化することで、やがて組織が時代に不適合となってくる。
実際にある官公庁で結論が予定調和する形式的な会議に参加したことがあり、人と意識しない運営に驚いたことがある。
何をなすべきかを考えないといけない。
・京セラの稲盛和夫氏は「迷った時は人として正しいかどうかで判断せよ」と主張している。
責任の重い話である、人としての正しい生き方の重要性を痛感させられる。
・組織の仕事はその割り当ての関係で「やらされるもの」であることが多いが、その仕事を自分の「文脈」で取り組むようにして、自分のやりたいことと重ね合わせるようにしていくことが肝要だと思う。
・他人にルールを説くときは、その背景にまで触れるようにしたい。
・「導く」ということに焦点を当てた講演の方に思う。グリーンリーフが若者向けた発信力の強い講演であることを感じる。
・キリスト教の信徒の立場で、グリーンリーフの宗教観に興味を覚える。
第二バチカン公会議での決定には他宗派として異見もある。
なによりもカトリック教徒ではないクエーカーのグリーンリーフの独自の考えが興味を引く。
さらに読み込んでいきたい。

グリーンリーフの熱い講演は、参加者に強いエネルギーを与えているようです。
続きでどのようなものを与えてくれるのでしょうか。
次回の読書会は2月27日(金) 19:00~21:00 新レアリゼアカデミーで開催予定です。